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新年明けましておめでとうございます。2010年01月01日 02時41分37秒

 本年も、好き勝手に思うままブログを続けていく所存ですので、おつきあいの程、皆さまよろしくお願いいたします。

 さて、新年一発目から批判めいた事はいいたくないが、相変わらず「綺麗に見える」日本語を羅列して「綺麗そうな」発言をしているだけなので、ちょっと一言。

鳩山内閣総理大臣 平成22年 年頭所感
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/01nentou.html


 気になったのは、中段
「一方で、一部に内閣の指導力について多様なご意見があることも承知しております。」
と言っておきながら、「しかし、ご理解をいただきたい~」と続けている点。


何がおかしいかといえば、よく文脈をたどるとこの発言は、

「指導力不足の批判がある」という事の反論として、

「政権交代」があったこと
「百家争鳴状態」にある(広く自由活発に意見が述べられている)事
「政策決定のプロセスを、大胆に開示していく必要がある」事

 を理由にしている。


 これは、明らかに「指導力が不足している・決断力が劣っている」という『本人の資質』の問題を『周辺状況の変化』の問題にすり替えようとしているに過ぎないことがわかる。

 確かに、広く議論をするのは構わない。
 熟慮するのは構わない。

 だが、決断するのは総理の役目であり、部下に支持するのは総理の義務だ。
 周りが何を言っていようと、どのように考えていようと「決断する」のはトップのみに許された権利であり、責任だ。

 それを相変わらず「周囲のせいで」と他人のせいにする。

 このような発言を公式に行っている時点で「トップとしての決断力不足」を世界に知らしめている事に気がつかない。
 これも明らかに問題だ。

 このような総理の下で進む日本の社会。

 政府の信用力が失墜している中でのこれからの一年を考えると、冒頭で自分が述べた「おめでとう」という言葉自体も、鳩山総理の発言と同じような単なる美辞麗句でしかなく空々しく聞こえてしまう、という事が少々残念なところだ。

なぜ「兼任」という選択ができるのか?2010年01月06日 23時18分38秒

財務相後任に菅副総理、国家戦略相は仙谷氏兼務
1月6日19時26分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100106-00001086-yom-pol

 結局「国家戦略室」は中身の無い組織であり、鳩山内閣(民主党)の基本国家戦略への取り組み自体が中身の無い見せ掛けのしろものだったという事だ。

 本来、国家戦略室と行政刷新会議を作った時、「性格の違う組織」を二つ作る事により偏る事の無い国家ビジョンを構築する、という事がコンセプトだったはずだ。実際、両組織を「両輪として」バランスの取れた国家運営を考えていくと言われていたのは記憶に新しい。
 しかしながら今回の人事により、両方とも同じ人物(仙石氏)が担当する事になる。

 これを異常だと感じない人はいないだろう。

 考えてみて欲しい、同じ人物が兼務する中で「性格の違う組織・意見でまとめる」ことなど可能だろうか。はっきり言って「無理」としかいえない。

 両輪といいつつ「表裏」でしかない一輪車状態。
 これが、今後の国家戦略室と行政刷新会議の姿だろう。


 今、管副総理の経済財政相と財務相兼任の話が取りざたされているが、これは時折ある事なので問題ではない。
 だが「鳴り物入り」で作ったにも関わらず、ここまで軽んじている「国家戦略室」と「行政刷新会議」については、あまりにもずさんとしか言えないだろう。

 一番の目玉として作った、両組織。
 それをここにきて安易に兼務させてしまうような戦略思考。

 これは完全な失策としか言えないだろう。

 ちなみに、これは「新しい政府だから」「総理として経験が短いから」という問題ではない。

 新人だろうが何だろうが、「性格が全く異なる組織」を兼務させる、と言う事がどれだけ愚かな事か理解しているかどうか、と言うことだ。

 少なくとも、総理であろうが町の社長だろうがこの程度の認識はできて当然だろう。

 今回の一件は、鳩山総理がやはりリーダーとしての資質を持っていない人間だという事を、また世間に明らかにした一件だろう。

弱気な自分にいらついた…2010年01月10日 06時52分29秒

連休と言うことで、DVDに取っておいたゴッドファーザーを見た。
背負う男っていうのはカッコいいよね。


という話はともかく、メールである意味、論争になった。

原因ははっきり言って、自分にあると思う。

なんだかね…
気がついたら「いい子ちゃん」になろうとしていたよ。
ホントに自嘲するしかないわな。

たかだか会の役職。

自分の案が、会員や他の人の賛同が得られなければ、来年の役職交代時に「首が飛ぶ」程度でしかないのに、何、守ろうとしていたんだか。

自分の座を守ったり仲良し倶楽部のお仲間でいるために、「やりたい事」を捨てるんじゃ、本末転倒でしかないわな。

よく考えたら「好かれるために」やっているわけでもなかったのになぁ。

「達成させるために」どう組織で動いていくか?
という事だったはずなのに、

「仲良くやっていくために」どう組織で動いていくか?
っていう風に考えそうになっていた。

駄目だわ、コレじゃ。


いかんいかん。最近、自分が「年を取った」と、こういう時に明確に感じる。

…駄目なら駄目で、この職業から足を洗ったっていいんだしね。

 自分のくだらない評判を守って「好かれる」リーダーになろうなんて、いつの間になってたんだろう?

…まいったなぁ www

連休中にもう一回、反省しないと駄目そうかな?

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ま、こんな事言ってるけど、実際には結構もろいんで、まだまだ完全復活には程遠いだろうけどね。
吹っ切れなければ吹っ切れないほど、周りに迷惑がかかるんだがなぁ(苦笑)

「がんばります」に意味は無い 12010年01月12日 19時19分28秒

 先日、興味深い事があった。

 パスタ屋で早めの昼食を取っていたのだが、時間は12時をまわり、徐々に店内が込み始めた。

 そこに二人組みのサラリーマンが来店し店員に席を提示されたのだが、サラリーマンが席に向かっていくと、実はその席がすでに他の客が使われている事がわかった。

 セルフサービス式のドリンクバーがあるので、その席にはお客がいなくてハンカチだけが荷物代わりにおかれていた。入り口からはハンカチが見えなかったので「空席」と店員は思ったらしい。
 店側としてはテーブルコントロールを始めたばかりで、空席と使用中の席が混在していて、完全に管理できていなかったようだ。

 実際、紹介された席は詰まっていたが、カウンター席や反対側の方にはまだまだ空いているテーブル席も有る状態だ。

 さて、ここで席を使われている事を判ったお客はどうしただろうか?
 他の席に移ったのだろうか?

 答えは「食べるのをやめて出て行った」だった。

 ちょっとずらせば十分に座って食事ができるのに「紹介された席が実は使われていた」という事だけで『その店で食事をする』意欲を失ったのだ。

 これを『短気な客だ』と思うのは簡単だろう。
 だが私はこの時、ある「顧客満足論」を思い出した。

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 顧客の満足についての評価度合いは、

 事前に「このように達成してもらえるだろう」という期待が、実際に提供された製品・サービスによって「どのように達成され充足されたか」という事との、差によって決まるという話だ。

 今回の話で言えば、
「店舗側から席を提供された」時点で、そのお客は「指定された席に座って食事ができる」
という事前期待が発生する。ところが行ってみれば、その席はすでに使用されているために、事前期待が達成されることが不可能になってしまっている。

 この時点で、顧客は不満が発生する事になる。

(許可)>『事前期待』>現実の否定>『期待不達成(裏切り)による不満』

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 ここで「じゃあ違う席を提供すればいいじゃないか」という事を安易に考えるかもしれない。

 だが「代替案」が「最初の事前期待」を満たすものでしかなければ、「品質的に同じ」モノを提供し『最初の事前期待』を達成できたとしても「裏切られた」という事実・意識自体を払拭する事はできない。
 『事前期待』と『サービス・製品』が等価関係、一対の関係である以上、『事前期待』+『不達成による不満(負の期待)』を満たすには、『サービス・製品』だけでなく+aが必要になるということだ。


(許可)>『事前期待』>現実の否定>『期待不達成(裏切り)による不満』

(同一サービスの提供)>『事前期待』部分の達成
        『期待不達成による不満』は残る。

※「事前期待」と「サービス・製品提供」が一対の関係
 『期待不達成による不満』と一対の関係を別途構築する必要がある。

 結局、このお客は「代替案」を提示される前に去っていったのだが、「事前期待」と「現実の不達成」との問題をよく表している一件だろう。

「がんばります」に意味は無い 22010年01月12日 19時23分10秒

さて、ここからは行政書士としてのお話。

 11月に倫理研修というのを千葉会で行ったのだが、ここでもこのような話を実際に講師がされていた。

 新人が仕事をしたがるあまり、判断を誤り「できます」と安請け合いしてしまうが、実際には十分にできなくてクレームが発生する場合のことだ。

 ただし、講師はこの話を「倫理」(『誠実』に業務を行う義務)として説明していた(時間が短かったという事もあるだろうが)。
 大雑把に言えば、「仕事を頑張ったから評価してほしい・仕事をやりますといって結局できない、というのは意味がない」というような内容だ。

 私自身、内容には大きく同意するのだが、これを「倫理」としてだけ説明してしまったのではちょっと足りないのではないか、とも考えている。
 ただ単に「倫理」とだけ説明してしまうと、「精神的なもの」ととらえて「努力した方がいい」「品位として守った方がいい」という風に、受講者としてはとらえかねない危険がある。実際、受講者の中にもちらほらと「主に品位を守るために必要な問題」として、倫理的にとらえているふしが見られた気がした。

 確かに「倫理」(『誠実』に業務を行う義務)としての側面も大きい。だが、それだけでなく「企業努力(事業努力)」としての顧客満足の問題として『も』教えた方が良かったのではないだろうか。
 行政書士だから「社会的に高品位を保つ」義務があるとは思う。
 だが「高品位を保つ」理由を「社会的意義」等のみに求め「精神論・倫理」を要求したとしてもどれだけの人が付いてくるだろうか。
「社会的意義」だけで「食い詰めている」先生達が従ってくれるだろうか?
 結局「そうは言っても仕事がなければ意味がない」となるのではないだろうか。

 ところが、この話を「経営論」として「顧客満足」の面からも進めていけば、どうなるだろう。
 「仕事を受けたとしても次に繋がらない。自分の健全経営が成り立たなくなる」と、なれば「今、仕事を受けたとしても意味がない」という理由で、倫理面だけでなく経営面からも抑制をかけられるのではないだろうか。

 私の中では、このような考え方が湧き上がっている。

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 どんな企業も「業」として「経済的利益を求める」事が前提だ。
 これは「法律隣接職」である私達も同じだろう。
 個人事業者であっても「事業者」である事は変わりがない。

 確かに「高品位」のサービスを提供することが、社会的に求められていたとしても「事業者として」成り立っていなければ意味がないだろう。

 そういう意味では、私達法律サービスであっても「経営」としての考え方が必要だと思う。

 実際、行政書士会で問題となっているクレームの多くは「健全経営のための手法」という観点からすれば、自然と「否定される」内容がほとんどだ。
 本来、「事業者として」の経営原理が頭に入っていれば、当然に『発生しない・回避される』ような問題がほとんどだ。

 ところがこれが何度も発生している。

 この原因の一つは、これを「倫理的な問題」としてしかとらえていない事にあると思う。
 会でも、綱紀等で問題を取り上げ対処するだけで根本的な「経営問題」としては誰も対策を考えていないように思われる。

 「高潔な倫理があればこのような問題は起きない」、という視点だけで考え「ならば高い倫理観が持てるように研修すべきだ」と短絡的にとらえているようにしか見えないのだ。
(そのための「倫理研修」という感じだし)

 確かに「高い倫理観」は必要だと思う。

 だがそれは、行政書士事務所として「健全・適切な経営」がなされていることが前提だと思う。

 私達は霞を食って生きているわけではないし、
「衣食足りて礼節を知る」の言葉どおり、逆に言えば「衣食が足りなければ礼節など意味がない」のだから。

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「健全に事業経営をする意識」が根底にあり、その上で「通常人より高い倫理観」を持つ。

 これが、本来、私達法律サービス業の「あるべき姿」だと思う。
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