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検察が言うんだから、死刑にすればいいんだよ!! ― 2010年11月01日 18時45分42秒
と考えるのだけは、絶対にやめて欲しいと思う。
裁判員、死刑適用せず=耳かき店員殺害で無期懲役―東京地裁
時事通信 11月1日(月)15時35分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101101-00000078-jij-soci
さてこの事件、冷静に見れば、まあ「五分五分」というのが妥当なところだと思う。
こういうと不満に思うかもしれないが、元々この事件、一言で言えば「絶対何が何でも死刑」と『言い切れる』レベルだったのか?というところに一番の問題があった。
確かに不条理な面はあったと思う。
だが、だからといって「何が何でも死刑にしてしまえばいいんだ」と、後悔することなく『言い切れる』かどうかといえば、非常に難しいと思う。
きっと、これを読んだ人は「自分なら言える」と言うかも知れないだろう。
だが、そのような人に聞きたい。
「死刑にすべき」と「死刑と言い切れない」「死刑が求刑されていても、それを認めないレベル」という境界線が自分の中で明確に確立しているのだろうか、と。
「2人だから死刑」 なら「1人」なら?
「か弱い女性を殺したから」なら「屈強な男」だったら?
はっきり言って、自分の中に「人を死刑にしていい(殺していい)」明確な境界線があり、それが「万人に共通するルールだ」と言い切れる人は、いないだろう。
逆にいえば、「自分のルールが日本のルールであるべきだ」などという人がいるのならば、私はそのような人間の方が恐ろしいとすら思う。
今回は、全員がバラバラの価値観の中で、それでも手探りで境界線を見極めようとした裁判だ。
結果、死刑と「言い切る」ことはできないという結論になった。
この判決について、批判があってもいいが、もう少し冷静に評価すべきだと思う。
少なくとも「私がその場にいたら死刑にしている」などと安易に言うのは問題だろう。
>東京地裁(若園敦雄裁判長)は1日、「死刑選択の余地を徹底的に議論したが、極刑がやむを得ないとの結論には至らなかった」
・『死刑やむ無し』とまでは言い切れなかった。
何度も書くが、これが端的に示された結論だ。
死刑にすべきと言う人は、「殺してしまえ」と『言い切る』事の重みをもう少し考えて欲しいと思う。
もし覚悟もせずに、雰囲気で「殺してしまえ」と言ってしまっているのならば、その思考には非常に問題があるのではないだろうか。
------------
特に、冒頭にも書いたが、
「検察が言うんだから、死刑にすればいいんだよ!!」
このような考え方を持っているのであれば、すぐに改めた方がいいだろう。
国家が言うから、権威が言うから、だから正しいだから従えばいい。
その思想こそが、人である事を放棄する考え方なのだから。
また、「自分の考えと違うから」許せない。
もし今回の裁判をこう批判するのであれば、それは非常に問題がある考え方だと思う。
「自分の考え方」こそが「世界の正しい考え方」と考えるのは傲慢でしかないのだから。
-------------
今回の裁判。
「境界線を必死に見極めた」裁判員の人には、「よくやった」「おつかれさま、がんばりましたね」と私は言いたい。
--------------
なお、被害者の遺族が「判決が許せない」というのは、当然だと思う。
当たり前の感情であり、これを否定するつもりは一切無い。
とはいえ「被害者遺族が望むのだから、死刑にしてしまえばいい」、という話でも無いことを『周り』は理解すべきだろう。
--------
--------
……話は変わるが、この記事、
東スポ方式の記事の書き方だけど、ちょっと問題がある気がしないでもない。どうしたものか。
裁判員、死刑適用せず=耳かき店員殺害で無期懲役―東京地裁
時事通信 11月1日(月)15時35分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101101-00000078-jij-soci
さてこの事件、冷静に見れば、まあ「五分五分」というのが妥当なところだと思う。
こういうと不満に思うかもしれないが、元々この事件、一言で言えば「絶対何が何でも死刑」と『言い切れる』レベルだったのか?というところに一番の問題があった。
確かに不条理な面はあったと思う。
だが、だからといって「何が何でも死刑にしてしまえばいいんだ」と、後悔することなく『言い切れる』かどうかといえば、非常に難しいと思う。
きっと、これを読んだ人は「自分なら言える」と言うかも知れないだろう。
だが、そのような人に聞きたい。
「死刑にすべき」と「死刑と言い切れない」「死刑が求刑されていても、それを認めないレベル」という境界線が自分の中で明確に確立しているのだろうか、と。
「2人だから死刑」 なら「1人」なら?
「か弱い女性を殺したから」なら「屈強な男」だったら?
はっきり言って、自分の中に「人を死刑にしていい(殺していい)」明確な境界線があり、それが「万人に共通するルールだ」と言い切れる人は、いないだろう。
逆にいえば、「自分のルールが日本のルールであるべきだ」などという人がいるのならば、私はそのような人間の方が恐ろしいとすら思う。
今回は、全員がバラバラの価値観の中で、それでも手探りで境界線を見極めようとした裁判だ。
結果、死刑と「言い切る」ことはできないという結論になった。
この判決について、批判があってもいいが、もう少し冷静に評価すべきだと思う。
少なくとも「私がその場にいたら死刑にしている」などと安易に言うのは問題だろう。
>東京地裁(若園敦雄裁判長)は1日、「死刑選択の余地を徹底的に議論したが、極刑がやむを得ないとの結論には至らなかった」
・『死刑やむ無し』とまでは言い切れなかった。
何度も書くが、これが端的に示された結論だ。
死刑にすべきと言う人は、「殺してしまえ」と『言い切る』事の重みをもう少し考えて欲しいと思う。
もし覚悟もせずに、雰囲気で「殺してしまえ」と言ってしまっているのならば、その思考には非常に問題があるのではないだろうか。
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特に、冒頭にも書いたが、
「検察が言うんだから、死刑にすればいいんだよ!!」
このような考え方を持っているのであれば、すぐに改めた方がいいだろう。
国家が言うから、権威が言うから、だから正しいだから従えばいい。
その思想こそが、人である事を放棄する考え方なのだから。
また、「自分の考えと違うから」許せない。
もし今回の裁判をこう批判するのであれば、それは非常に問題がある考え方だと思う。
「自分の考え方」こそが「世界の正しい考え方」と考えるのは傲慢でしかないのだから。
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今回の裁判。
「境界線を必死に見極めた」裁判員の人には、「よくやった」「おつかれさま、がんばりましたね」と私は言いたい。
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なお、被害者の遺族が「判決が許せない」というのは、当然だと思う。
当たり前の感情であり、これを否定するつもりは一切無い。
とはいえ「被害者遺族が望むのだから、死刑にしてしまえばいい」、という話でも無いことを『周り』は理解すべきだろう。
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……話は変わるが、この記事、
東スポ方式の記事の書き方だけど、ちょっと問題がある気がしないでもない。どうしたものか。
石原慎太郎曰く「私の作品は、映像にすると低俗で子供達に害を与える作品です」 ― 2010年03月16日 23時24分26秒
漫画などの児童ポルノ規制 東京都、条例改正案を説明
2010/03/13 10:42
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/368117/
東京都の2次元児童ポルノ規制、ちばてつやらが反対の記者会見
2010/03/15 07:43
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/368724/
IT Media
漫画・アニメの「非実在青少年」も対象に 東京都の青少年育成条例改正案 (1/2)
2010年03月09日 21時57分 更新
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/09/news103.html
----
石原慎太郎東京都知事は、自分が芥川賞を取った作品すら「映像化しちゃいけない問題作品」と自己否定をされたいようだ。
今回の改正案は
「18歳未満として表現されていると認識されるもの(「非実在青少年」)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に関わる非実在青少年の姿態を視覚による認識する事ができる方法でみだらに描写する事により、青少年の性に関する健全な判断能力の成長を阻害するおそれがあるもの」とのことだが、
簡単にいえば、「18歳未満の空想上の人間が、視覚(映像)で、性交または類似行為をする姿を描写するのは、青少年の性に関する健全な判断能力の成長を阻害する」という理屈だ。(「簡単じゃなかった」かもしれないwww)
さて、これがどうして「自己否定に繋がる」のか。
それは石原慎太郎氏の代表作「太陽の季節」にある。
あらすじ(wikipediaより)
『高校生・津川竜哉はボクシングに熱中しながら仲間と酒・バクチ・女・喧嘩の自堕落な生活をしている。ある夜盛り場で知り合った少女英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていくが、竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄道久に彼女を5千円で売りつける。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取り(契約)が繰り返される。ところが英子が竜哉の子を身籠ったことがわかり、英子は妊娠中絶手術を受ける。手術は失敗し英子は腹膜炎を併発し死に、葬式で竜哉は英子の自分に対する命懸けの復讐を感じ、遺影に香炉を投げつけ、初めて涙を見せた。』
どう読んでも主人公は「18歳未満」
はっきりいって「非倫理的」といわれても仕方がない作品です。
(というか、実際「言われている」事の方が多いが)
では、この作品は規制条例でどうなるだろうか?
『小説だから視覚表現は無い。だから大丈夫』
確かにその通り。
だが、これはもう一つの事実を突きつける事になる。
『太陽の季節を「原作どおり映像化」することは絶対に許されない』
『映像化するには、非倫理的な作品』
という事実だ。
(18歳未満の男子が女性とヤリまくって、最後には兄に5千円で売りつけるなんて、どこをどうすれば倫理的といえるのだろうか)
自分が作家として、この作品を含めその他多くの作品で「倫理」の一言で苦しめられていたのに、なぜ今回「表現規制」自体を容認しようとしているのだろうか。
はっきりいって、自分の過去がわからない、認知症にでもなってしまったのだろうか。
他の作家・漫画家達が、なぜ反対しているのか「太陽の季節」を書いた『作家石原慎太郎』はどう思っているのか、そこが一番聞いてみたいところだ。
----
なお、私自身の表現規制の基本的な考え方は(児童ポルノに限らず)、
原則「表現する事」自体を規制するのは間違っている。
「受ける側が、容易に選別できるように」すべきだ、です。
つまり
「表現を発信する自由」は最大限認めるべき、
同等に
「表現を受信しない自由」も最大限行使できるように認めるべし。
というように
『表現に対する表裏の関係』であり、同様に保障されるべきだ、という考え方です。
なので「受信しないようにする(できる)」努力・規制は、ある程度あってもいいと思います。
ですが、「空想上の話でも、表現する事自体」に問題があるという認識で発せられている今回の規制は、根本的な部分で問題があると思いますので、全面的に反対します。
細かい考えなどは、自記事の本文とコメント等を読めば参考になると思います。
自記事
小便小僧を破壊しよう!! ― 2009年06月30日 02時30分56秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2009/06/30/4402636#c4949567
----
誰か、本気で「太陽の季節」を漫画化・映像化してみる人、いないかなぁ?
これを東京で流せるかどうか、本当に問いただしてみたら面白いのに。
と書いたら、まとめサイト「非実在青少年」規制問題・対策まとめで、すでに質問した人がいたとの情報が得られた。
http://hijituzai.ehoh.net/
が、内容を読む限り
>質問:「『太陽の季節』や『ラ・マン』は?あれはいいんですか?」
>回答:「いいんです」
と、どうも「日活版(または最近のドラマ版)」など『既存の映像作品』だけの話として終わっていると思う。
『原作どおりに、映像化した場合でも許可できるのか?』と聞くべきだったんではないだろうか。
というか、誰か夏コミにでも「太陽の季節」を元にした同人誌作ってくれ。
頼む。
---
その他参考サイト
とある非実在青少年が性行為を行う小説
―空気を読まない中杜カズサ―
http://d.hatena.ne.jp/nakakzs/20100228/1267311270
2010/03/13 10:42
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/368117/
東京都の2次元児童ポルノ規制、ちばてつやらが反対の記者会見
2010/03/15 07:43
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/368724/
IT Media
漫画・アニメの「非実在青少年」も対象に 東京都の青少年育成条例改正案 (1/2)
2010年03月09日 21時57分 更新
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/09/news103.html
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石原慎太郎東京都知事は、自分が芥川賞を取った作品すら「映像化しちゃいけない問題作品」と自己否定をされたいようだ。
今回の改正案は
「18歳未満として表現されていると認識されるもの(「非実在青少年」)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に関わる非実在青少年の姿態を視覚による認識する事ができる方法でみだらに描写する事により、青少年の性に関する健全な判断能力の成長を阻害するおそれがあるもの」とのことだが、
簡単にいえば、「18歳未満の空想上の人間が、視覚(映像)で、性交または類似行為をする姿を描写するのは、青少年の性に関する健全な判断能力の成長を阻害する」という理屈だ。(「簡単じゃなかった」かもしれないwww)
さて、これがどうして「自己否定に繋がる」のか。
それは石原慎太郎氏の代表作「太陽の季節」にある。
あらすじ(wikipediaより)
『高校生・津川竜哉はボクシングに熱中しながら仲間と酒・バクチ・女・喧嘩の自堕落な生活をしている。ある夜盛り場で知り合った少女英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていくが、竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄道久に彼女を5千円で売りつける。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取り(契約)が繰り返される。ところが英子が竜哉の子を身籠ったことがわかり、英子は妊娠中絶手術を受ける。手術は失敗し英子は腹膜炎を併発し死に、葬式で竜哉は英子の自分に対する命懸けの復讐を感じ、遺影に香炉を投げつけ、初めて涙を見せた。』
どう読んでも主人公は「18歳未満」
はっきりいって「非倫理的」といわれても仕方がない作品です。
(というか、実際「言われている」事の方が多いが)
では、この作品は規制条例でどうなるだろうか?
『小説だから視覚表現は無い。だから大丈夫』
確かにその通り。
だが、これはもう一つの事実を突きつける事になる。
『太陽の季節を「原作どおり映像化」することは絶対に許されない』
『映像化するには、非倫理的な作品』
という事実だ。
(18歳未満の男子が女性とヤリまくって、最後には兄に5千円で売りつけるなんて、どこをどうすれば倫理的といえるのだろうか)
自分が作家として、この作品を含めその他多くの作品で「倫理」の一言で苦しめられていたのに、なぜ今回「表現規制」自体を容認しようとしているのだろうか。
はっきりいって、自分の過去がわからない、認知症にでもなってしまったのだろうか。
他の作家・漫画家達が、なぜ反対しているのか「太陽の季節」を書いた『作家石原慎太郎』はどう思っているのか、そこが一番聞いてみたいところだ。
----
なお、私自身の表現規制の基本的な考え方は(児童ポルノに限らず)、
原則「表現する事」自体を規制するのは間違っている。
「受ける側が、容易に選別できるように」すべきだ、です。
つまり
「表現を発信する自由」は最大限認めるべき、
同等に
「表現を受信しない自由」も最大限行使できるように認めるべし。
というように
『表現に対する表裏の関係』であり、同様に保障されるべきだ、という考え方です。
なので「受信しないようにする(できる)」努力・規制は、ある程度あってもいいと思います。
ですが、「空想上の話でも、表現する事自体」に問題があるという認識で発せられている今回の規制は、根本的な部分で問題があると思いますので、全面的に反対します。
細かい考えなどは、自記事の本文とコメント等を読めば参考になると思います。
自記事
小便小僧を破壊しよう!! ― 2009年06月30日 02時30分56秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2009/06/30/4402636#c4949567
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誰か、本気で「太陽の季節」を漫画化・映像化してみる人、いないかなぁ?
これを東京で流せるかどうか、本当に問いただしてみたら面白いのに。
と書いたら、まとめサイト「非実在青少年」規制問題・対策まとめで、すでに質問した人がいたとの情報が得られた。
http://hijituzai.ehoh.net/
が、内容を読む限り
>質問:「『太陽の季節』や『ラ・マン』は?あれはいいんですか?」
>回答:「いいんです」
と、どうも「日活版(または最近のドラマ版)」など『既存の映像作品』だけの話として終わっていると思う。
『原作どおりに、映像化した場合でも許可できるのか?』と聞くべきだったんではないだろうか。
というか、誰か夏コミにでも「太陽の季節」を元にした同人誌作ってくれ。
頼む。
---
その他参考サイト
とある非実在青少年が性行為を行う小説
―空気を読まない中杜カズサ―
http://d.hatena.ne.jp/nakakzs/20100228/1267311270
地上波デジタルになったら契約は自動破棄でいいんだよね? ― 2009年07月28日 23時07分29秒
NHK受信料の支払い命じる=督促訴訟で東京地裁
7月28日16時2分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000092-jij-soci
まあ、裁判官のでっち上げ論理はどうでもいい(というか、こんな無茶苦茶な論法で「説得できる」と思っている裁判官の脳みそが信じられないが)
今、BSデジタルではB-CAS解除の登録をしないと、「登録しろ催促」が画面に出るようになった。
つまり、デジタル放送では、見続けるかどうかの確認は簡単に取れるようになったということだ。
なら今後は「デジタル確認」で受信料契約(B-CAS登録)しない限りは「催促画面流しっぱなし」にすればいい。
これはBSデジタルに関わらず、地上波デジタルでもできる。
そうすれば「催促画面流しっぱなし」の人については「受信契約成立せず」という論理が成立するだろう。
ところが、そんな『手続』もせずに「テレビを買ったんだからNHKを見れるようになった」という論理を振りかざすというのでは、あまりにもおかしな話だ。
裁判官もきちんとその辺りを今後は踏まえて欲しいと思う。
7月28日16時2分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000092-jij-soci
まあ、裁判官のでっち上げ論理はどうでもいい(というか、こんな無茶苦茶な論法で「説得できる」と思っている裁判官の脳みそが信じられないが)
今、BSデジタルではB-CAS解除の登録をしないと、「登録しろ催促」が画面に出るようになった。
つまり、デジタル放送では、見続けるかどうかの確認は簡単に取れるようになったということだ。
なら今後は「デジタル確認」で受信料契約(B-CAS登録)しない限りは「催促画面流しっぱなし」にすればいい。
これはBSデジタルに関わらず、地上波デジタルでもできる。
そうすれば「催促画面流しっぱなし」の人については「受信契約成立せず」という論理が成立するだろう。
ところが、そんな『手続』もせずに「テレビを買ったんだからNHKを見れるようになった」という論理を振りかざすというのでは、あまりにもおかしな話だ。
裁判官もきちんとその辺りを今後は踏まえて欲しいと思う。
MIAU の声明に賛同します ― 2009年07月14日 18時21分49秒
改正児童ポルノ法案は「ネット利用に大きな弊害」 MIAUが声明、賛同者募集
7月13日11時55分配信 ITmediaニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090713-00000028-zdn_n-sci
記事元
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0907/13/news029.html
児童ポルノにより、実際の児童が被害にあうことは許されませんが、現在の「改悪児童ポルノ禁止法案」については反対であり、MIAU声明を支持いたします。
MIAU(インターネットユーザー協会) 公式サイト
http://miau.jp/
著作権関連を扱う業務である以上、「創作者の自由な創作活動」そのものを制限する場合には、客観的な根拠が必要だと私は考えています。
ところが、現在の改悪案においては、「客観的根拠」を事前に提示せず、禁止法執行者側が「主観的に問題がある」と判断しただけで、その時点で規制する事が可能となっています。
これは明らかに「恣意的な運用」により「内心の自由」を規制する行為だと思われます。
(実際、趣旨説明その他において、客観的根拠が無いまま「自己の内心」そのものを理由として、改正すべきだと主張しています)
よって、「今の改正法案」は認めるべきではないでしょう。
※※
勘違いしないで欲しいのですが、「児童ポルノ」そのものを容認しているわけではありません。
『他人の嗜好・思想・表現・行動を規制する』以上、その基準は『客観的に示され、恣意的に運用されないこと』をが必要だと言っているのです。
単に「ポルノだから」いいだろうと、安易に『客観基準無き規制』を容認した場合、風潮さえ作れれば「単に○○だから」いいだろうと国家規制を自由に作れる事になります。
これは、「法秩序」そのものを揺るがす問題です。
それゆえに、また「創作者の創作行為」ならびに「内心の自由」を守るために、私は、今回のMIAUの声明に賛同いたします。
-----
興味のある方は、以下のサイトで、
「児童ポルノだろう」とか「ネット馬鹿のたわごとだろう」と偏見を持つことなく、公平な目を持って、声明を読んでみてください。
その上で、改正案に賛同するか、MIAUに賛同するか、一度じっくりと考えてみていただきたいと思います。
MIAU公式サイト
http://miau.jp/
------
参考記事:経済面から見た、今回の改正に関する反対意見
日経BP社 SAFETYJAPAN
「児童ポルノ禁止法」で日本のマンガ・アニメが衰退する
経済アナリスト 森永卓郎
2009年 7月14日
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20090713/167005/
--------
現在の政局によると、どうも改正法案成立は微妙な状況になってきたようです。
とはいえ、「倫理」の名の下に、感情論だけでの法案審議は今後も続く可能性があります。
したがって、今後もこの問題については、常に正確な理解を心がける必要があると思われます。
---------
参考その2:自記事「小便小僧を破壊しよう!!」
2009年06月30日 02時30分56秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2009/06/30/4402636
実際に、表現の面から見た問題点を自分なりの視点で少々まとめてあります。
7月13日11時55分配信 ITmediaニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090713-00000028-zdn_n-sci
記事元
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0907/13/news029.html
児童ポルノにより、実際の児童が被害にあうことは許されませんが、現在の「改悪児童ポルノ禁止法案」については反対であり、MIAU声明を支持いたします。
MIAU(インターネットユーザー協会) 公式サイト
http://miau.jp/
著作権関連を扱う業務である以上、「創作者の自由な創作活動」そのものを制限する場合には、客観的な根拠が必要だと私は考えています。
ところが、現在の改悪案においては、「客観的根拠」を事前に提示せず、禁止法執行者側が「主観的に問題がある」と判断しただけで、その時点で規制する事が可能となっています。
これは明らかに「恣意的な運用」により「内心の自由」を規制する行為だと思われます。
(実際、趣旨説明その他において、客観的根拠が無いまま「自己の内心」そのものを理由として、改正すべきだと主張しています)
よって、「今の改正法案」は認めるべきではないでしょう。
※※
勘違いしないで欲しいのですが、「児童ポルノ」そのものを容認しているわけではありません。
『他人の嗜好・思想・表現・行動を規制する』以上、その基準は『客観的に示され、恣意的に運用されないこと』をが必要だと言っているのです。
単に「ポルノだから」いいだろうと、安易に『客観基準無き規制』を容認した場合、風潮さえ作れれば「単に○○だから」いいだろうと国家規制を自由に作れる事になります。
これは、「法秩序」そのものを揺るがす問題です。
それゆえに、また「創作者の創作行為」ならびに「内心の自由」を守るために、私は、今回のMIAUの声明に賛同いたします。
-----
興味のある方は、以下のサイトで、
「児童ポルノだろう」とか「ネット馬鹿のたわごとだろう」と偏見を持つことなく、公平な目を持って、声明を読んでみてください。
その上で、改正案に賛同するか、MIAUに賛同するか、一度じっくりと考えてみていただきたいと思います。
MIAU公式サイト
http://miau.jp/
------
参考記事:経済面から見た、今回の改正に関する反対意見
日経BP社 SAFETYJAPAN
「児童ポルノ禁止法」で日本のマンガ・アニメが衰退する
経済アナリスト 森永卓郎
2009年 7月14日
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20090713/167005/
--------
現在の政局によると、どうも改正法案成立は微妙な状況になってきたようです。
とはいえ、「倫理」の名の下に、感情論だけでの法案審議は今後も続く可能性があります。
したがって、今後もこの問題については、常に正確な理解を心がける必要があると思われます。
---------
参考その2:自記事「小便小僧を破壊しよう!!」
2009年06月30日 02時30分56秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2009/06/30/4402636
実際に、表現の面から見た問題点を自分なりの視点で少々まとめてあります。
小便小僧を破壊しよう!! ― 2009年06月30日 02時30分56秒
宮沢りえのヘアヌード写真集 17歳で撮影なら児童ポルノ?
6月29日21時15分配信 J-CASTニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090629-00000005-jct-soci
さて、現代の焚書活動が始まりかねない、この『悪法』
「今の論理・法案での単純所持規制」は、私は絶対に反対です。
でも、ヒステリックな人権擁護団体(児童擁護団体)と日本の「問題がありそうなら、全部なくしてしまえ」という事なかれ主義・無責任主義の結果、このまま成立して、表現・文化が崩壊しそうな状況になりつつあります。
確かに、実在の子どもを性的対象とするのは問題があります。
だから「児童被害」から救うために、「実在する児童に対し被害を与えている」一定の性的行為に規制をかけるというのは、当然です。
私だって『「実在する児童」が被害にあう性的行為』は許せません。
(というより、『「実在する人間」が被害にあっている行為』自体、本来は許されないものだと思っています。)
ですが、単なる空想や一般化された「表現」にまで、「子どもの裸体を描写しているから、けしからん!!」と規制をかけるのはどうでしょうか。
そもそも「性的興奮をもよおしかねない」という基準はどこにあるのでしょう。
本来、子どものみならず「どこに性的興奮を感じるか?」というのは「人それぞれに違い」があります。
また「芸術」と「エロティシズム」・「エロ」は、個人の感情・熱情表現である以上、その関係においても密接していて、これを完全に区分するのは難しいです。
(いい音楽、いい映像を見るだけで「興奮状態」になった時、脳内状態においては性的興奮との違いがほとんど無い場合も多いです。)
このような状況下で、どうやって性的興奮と純粋なる感動による表現を分ける事ができるのでしょうか。
例えば、「歌麿の浮世絵」について言えば、今でこそ「芸術」として認められているが、元々は「春画」(いわゆるエロ絵)でしかありません。
では、歌麿は、今後は「エロ絵」として扱うのでしょうか。
(確かに現在でも性的興奮を感じる人もいるかもしませんし。)
また、芸術作品と言われる「アフロディーテの誕生」など、様々な裸婦画についても、これらに対して多感な少年期であれば「性的興奮を感じる」のではないでしょうか?(というか、性的興奮を感じた経験はないでしょうか? 私は、少年期にありました。今でも、ちょっと恥ずかしく感じる事はあります。)
では、これらも「性的興奮を感じさせる絵」として18禁対象にするのでしょうか。
これを言いすぎと考えるかもしれない人は多いでしょう。
ですが、実際に「裸婦・裸の写真」という事で制限をかけるなら、当然、これらも対象という事になります。
(今回は「児童のみ」としていますが、女性の裸体を出すから、女性被害が耐えないんだ!!という論理を持ち出されたら、当然、これらも規制を考える事になります)
冗談のように聞こえますが、今回の「宮沢りえ」論争もここが論点になっています。
この話、「宮沢りえの写真集だから」と簡単に考えている人もいるかもしれません。
ですが、この話を冷静に考えていると、非常に問題があります。
例であげれば次のようなものもすべて駄目になるからです。
小便小僧。
裸体(またはうす布をまとったようなだけ)の少女の銅像
「性に未分化な」状況モチーフにした裸体等の写術絵
これらまで規制の網にかかり消滅するとなると、芸術的損失・表現に関する損失は多大なものとなるのではないでしょうか。
「裸体は性的興奮を感じさせるからだめ!!」とヒステリックに叫ぶ人たち。
芸術の意味・表現の意味も考えず、このような主張をする人たち。
彼らの方が「間違った性意識」の固まりなのではないか、そんな気がします。
……ちなみに、小便小僧、彼を「18歳以上」と考えるのは絶対に無理だと思います。
だから今後は『小便小僧の写真を持っているだけで、「単純所持」という事で処罰対象になる』ということでしょう。
まあ、屁理屈として「小便小僧は古くからある銅像だから許される」という変な理屈を唱えるかもしれませんが、ならば、「小便小僧と同じポーズを取らせた、実在の少年」の写真を撮った場合はどうするのか、考えて欲しいと思います。
勝手に「自分達の感性」だけを正しいといって、他人の感性・表現を無理矢理規制する児童ポルノ禁止法案。
それは異常な神経の持ち主による、他者の思想信条を認めない。
単なる思い上がりでできあがっている事に気づくべきでしょう。
6月29日21時15分配信 J-CASTニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090629-00000005-jct-soci
さて、現代の焚書活動が始まりかねない、この『悪法』
「今の論理・法案での単純所持規制」は、私は絶対に反対です。
でも、ヒステリックな人権擁護団体(児童擁護団体)と日本の「問題がありそうなら、全部なくしてしまえ」という事なかれ主義・無責任主義の結果、このまま成立して、表現・文化が崩壊しそうな状況になりつつあります。
確かに、実在の子どもを性的対象とするのは問題があります。
だから「児童被害」から救うために、「実在する児童に対し被害を与えている」一定の性的行為に規制をかけるというのは、当然です。
私だって『「実在する児童」が被害にあう性的行為』は許せません。
(というより、『「実在する人間」が被害にあっている行為』自体、本来は許されないものだと思っています。)
ですが、単なる空想や一般化された「表現」にまで、「子どもの裸体を描写しているから、けしからん!!」と規制をかけるのはどうでしょうか。
そもそも「性的興奮をもよおしかねない」という基準はどこにあるのでしょう。
本来、子どものみならず「どこに性的興奮を感じるか?」というのは「人それぞれに違い」があります。
また「芸術」と「エロティシズム」・「エロ」は、個人の感情・熱情表現である以上、その関係においても密接していて、これを完全に区分するのは難しいです。
(いい音楽、いい映像を見るだけで「興奮状態」になった時、脳内状態においては性的興奮との違いがほとんど無い場合も多いです。)
このような状況下で、どうやって性的興奮と純粋なる感動による表現を分ける事ができるのでしょうか。
例えば、「歌麿の浮世絵」について言えば、今でこそ「芸術」として認められているが、元々は「春画」(いわゆるエロ絵)でしかありません。
では、歌麿は、今後は「エロ絵」として扱うのでしょうか。
(確かに現在でも性的興奮を感じる人もいるかもしませんし。)
また、芸術作品と言われる「アフロディーテの誕生」など、様々な裸婦画についても、これらに対して多感な少年期であれば「性的興奮を感じる」のではないでしょうか?(というか、性的興奮を感じた経験はないでしょうか? 私は、少年期にありました。今でも、ちょっと恥ずかしく感じる事はあります。)
では、これらも「性的興奮を感じさせる絵」として18禁対象にするのでしょうか。
これを言いすぎと考えるかもしれない人は多いでしょう。
ですが、実際に「裸婦・裸の写真」という事で制限をかけるなら、当然、これらも対象という事になります。
(今回は「児童のみ」としていますが、女性の裸体を出すから、女性被害が耐えないんだ!!という論理を持ち出されたら、当然、これらも規制を考える事になります)
冗談のように聞こえますが、今回の「宮沢りえ」論争もここが論点になっています。
この話、「宮沢りえの写真集だから」と簡単に考えている人もいるかもしれません。
ですが、この話を冷静に考えていると、非常に問題があります。
例であげれば次のようなものもすべて駄目になるからです。
小便小僧。
裸体(またはうす布をまとったようなだけ)の少女の銅像
「性に未分化な」状況モチーフにした裸体等の写術絵
これらまで規制の網にかかり消滅するとなると、芸術的損失・表現に関する損失は多大なものとなるのではないでしょうか。
「裸体は性的興奮を感じさせるからだめ!!」とヒステリックに叫ぶ人たち。
芸術の意味・表現の意味も考えず、このような主張をする人たち。
彼らの方が「間違った性意識」の固まりなのではないか、そんな気がします。
……ちなみに、小便小僧、彼を「18歳以上」と考えるのは絶対に無理だと思います。
だから今後は『小便小僧の写真を持っているだけで、「単純所持」という事で処罰対象になる』ということでしょう。
まあ、屁理屈として「小便小僧は古くからある銅像だから許される」という変な理屈を唱えるかもしれませんが、ならば、「小便小僧と同じポーズを取らせた、実在の少年」の写真を撮った場合はどうするのか、考えて欲しいと思います。
勝手に「自分達の感性」だけを正しいといって、他人の感性・表現を無理矢理規制する児童ポルノ禁止法案。
それは異常な神経の持ち主による、他者の思想信条を認めない。
単なる思い上がりでできあがっている事に気づくべきでしょう。
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