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派遣・短期は社会弱者?フリーランサーを舐めてるからだろ!!2009年01月12日 00時37分50秒

おれ派遣、おれを撮る…26歳「岩淵監督」が映画化
1月11日15時36分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000024-yom-soci

元記事の監督については、何も言うことなし。
また映画を見ていない以上何もいえません。

……ただ、

自分を「弱者・被害者面」している、派遣や期間労働者の連中は、ただの馬鹿だと思う。

それと、「彼らを弱者扱い」して、優越感に浸っている「自称弱者の味方」連中の「似非正義」は、鼻で笑うしかない。


はっきり言って、「自業自得」に過ぎないでしょう。今の彼らの状況は。

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元々、派遣や短期労働者っていうのは「流動性の高い労働力」のはず。

「企業に固定」されるのでなくて、「要求される労働力」(需要)に合せて「自由に移動できる」事を前提とした労働形態のはず。

その結果、正社員と派遣社員にはそれぞれ、

派遣は「仕事があれば(契約があえば)、自由に新しい職場に移動できる(労働内容を変化できる)」という「労働選択の自由」が「雇用社員(正社員)」より高く存在し、
逆に正社員は「自由に移動できないかわりに、雇用が高度に保障」される。

このように、それぞれ「自由・流動性」と「拘束・安定性」というメリット・デメリットが成立していたはずです。

なら、この不況下によって、企業経営での「労働力確保」思考が、流動性より安定性を重視するようになったら、「雇用社員」を優先的に保障して「派遣社員」を削減するのは当たり前、です。

そもそも、拘束を嫌って安定性を放棄したのは、「派遣労働者」の側。

なら、「安定性が低い」という事に不満を言うのは本末転倒でははないだろうか?

本来、「派遣社員にも正社員と同等の権利」をというのであれば、「正社員にも派遣社員と同等の権利」を、また「派遣社員も正社員と同等の義務」を追う事が当然ではないだろうか?


どう考えても、今の派遣・短期労働者の言っている不平は、「自分達だけ得をしたい」という論理にしか思えない。

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「自分達にも権利をよこせ」というならば「自分達も(正社員と)同等の義務を果たせ」

と要求するのは、私のほうが間違っているのだろうか?

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さて、こんな事を書くと、「何を偉そうに、自分達の事も解らずに」などという「自分から弱者になりさがった」連中からの批判が出るかもしれないだろう。

だけど、そのような「被害者面」をしている人に言いたい。

そもそも私達のような「法律職・法律隣接職」自体、1個の「フリーランサー」に過ぎないのだ、と。

ただ、国家から「一定の職業能力」が認められているだけで、誰かに雇用されているわけでもなく誰かに拘束されているわけでもない。さらには業務(収入)が保障されているわけでもない。
自分で仕事を受注して、自分で仕事を処理して、自分で収入を得る。

それが、私達のような職業であり、一人自由業(フリーランサー)の最たる存在だ。
(最近は、法人雇用される雇用弁護士や雇用行政書士も出てきてはいるが)

だから、はっきり言ってしまえば「派遣組」以上に「収入が不安定」なのがこの職業でもある。

それを「それぞれのフリーランサーが」努力して安定性を高めたり収入を確保しているに過ぎない。

それが真実だ。

……実際、開業したが夢破れてやめていった人など、山のようにいる。
10年頑張れるのは半分程度。

(というより「フリーランサーとしての覚悟」をせずに「サラリーマン気質のまま」開業するから失敗する馬鹿な連中が多すぎるのだが)


だからこそ、フリーの強みとフリーの弱みを、一番よく理解している。

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あまりにも非道な扱い(差別的扱い)をされたというなら別だが、今の「派遣・短期労働者」の状況の多くは、自分を磨く事もせず、ただ派遣会社に登録してちょこちょこ努力している(つもり)の結果なのだから、同情なんてまったくできない。

単なる「自業自得」だとしかいえない。

これが、自分の本心だ。

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http://www.aa.alles.or.jp/~g-lawyer/office.html
自分の経歴を見れば解るとおり、

何の能力保証も無い「フリーター」から、
国家によって能力保証される「高度なフリーランサー」

それが、自分が選んだ道です。

能力保証も無い「一般フリーランサー」

そんな安易な道を選ばなかっただけです。

それでも、この不況下、ぎりぎりいっぱいな事もあるのですから、
安易な道を選んだ「一般フリーランサー」が、泣き言を言ったところで、同情など一切できません。

”他の人が安易な道に流れていた時、次の一手のために「能力保証が得られる」ように試験勉強をして合格した”

それが、私の「フリーランサー」としての始まりですから。

……悪いけど今回の状況では、「弱者面」している勘違い組については、支援できないね。
だって一番間違っているのは、その「弱者・被害者面」している連中だから。

ウチの事務所は「弱者の味方」だけど、「弱者面をしている人の味方」じゃないから。

コメント

_ にしもと ― 2009年01月12日 02時04分13秒

同感です。行政が用意した就職先も彼らの多数は事情もあって拒否しているとの事、しかし困窮しているなら選り好みしてる場合じゃ無いですよね。私の勤め先も倒産の危機にありますが社員全員が必死で支えてます。頼れるのは自分達しか無いからです。

_ くろかめ ― 2009年11月08日 23時31分09秒

なかなか立派な発言ですね。
それなら、あなたはどれだけ働いても年収が平均年収やモデル年収とされる500万の3分の1も手に入れられない人に面と向かって言えますか。
私の友人にはリウマチになって正社員としての労働ができなくなった人もいますよ。資格を持っていられるだけの投資を、だれからしてもらったのですか。すべて自分で稼いだ金ですか。親の支援もなかったのですか。
頼れるのは自分たちだというなら、なぜ、貧しいもの、苦しいものを「よそ者」とするのですか。
あなたの子孫が、そのように切り捨てられる社会で育てたいなら、堂々と主張しつづければよいでしょう。

_ TAKE(管理人) ― 2009年11月10日 00時07分23秒

>それなら、あなたはどれだけ働いても年収が平均年収やモデル年収とされる500万の3分の1も手に入れられない人に面と向かって言えますか。

 場合によっては『言います』

 まず、なぜ『平均年収があがらない』職種に付いたのでしょうか。
 それ以外に選択肢は「一つもなかった」のですか?

「いい職業に就けるように」自分を磨く努力はしなかたのですか?

 その職業に付く前に「熟慮をした」のですか?

 「今は仕事がない」というのは論外です。
 もしそう主張するなら、今に至る「前」は何をしていたのでしょうか?

 確かに、本当に「それしか道がなかった」という人もいます。
 そのような方なら、いくらでも手助けします。

『ウチの事務所は「弱者の味方」だけど、「弱者面をしている人の味方」じゃない』ので


>資格を持っていられるだけの投資を、だれからして
>もらったのですか。すべて自分で稼いだ金ですか。
>親の支援もなかったのですか。

自分です。

 単に年5万程度の通信教育と、図書館などの本を読んで勉強しました。
 一日2~3時間、本気で勉強して、自分に適正があれば、あなたでも2年もあれば十分受かるでしょう。

はっきり言います。
「自分を向上させる努力・自分の価値を高める努力」をしたのですか?

 昨日、行政書士試験があったのですが、試験においては「眼の見えない人用」など、障害者に対しても門戸を開いています。

また
>リウマチになって正社員としての労働ができなくなった人もいますよ

ええ、ですが「自分が動けなくなった時どうするか」は考えていなかったのですか?

 「昨日まで五体満足だった」から「明日も五体満足に働ける」・「昨日まで立派な会社で働いていた」から「明日も立派な会社が存在している・働ける」というのは幻想です。

それは、「自分の時間」というのを、薄く・安く考えているだけです。


 確かに「何でも切り捨てて成り立つ社会」というのは間違っているとも思います。
 ですが、「努力もしない人間」を、無駄に助ける社会というのも間違っていると思います。


 まずは「自分達が生きていくための努力」をしてから、主張してください。
(「職安に通う」だけでなく「自分の価値を高める努力」をしてください)

 「努力をすることなく、安易な道に流れていた」ような人が「弱者面をするな」。

 「目の前に危機が現われて嘆くのなら、なぜその前に努力をしないのか?」

 これが私の主張です。

※どうしても回避できない急な事情というのはあります。そのような人たちについて、助けるべきだと思います。

 ですが、バブルがはじけた時や、今のリーマンショック危機、年金問題などは、「きちんと周りを見ていれば」ある程度予測できたことです。

「予測しなかったのは自己責任」以外の何物でもないでしょう。

 本当の「弱者」については、助けを求めればいくらでも手助けします。
 でも、「努力もしなかった『弱者もどき』」は助ける必要など無い。

 そう思っています。

_ TAKE(管理人) 追記 ― 2009年11月10日 00時16分54秒

>私の友人にはリウマチになって正社員としての労働ができなくなった人もいますよ。

リウマチの初期段階において、なぜ治療しなかったのでしょうか?
また、なぜ「リウマチになった」のでしょうか。

病気になってから嘆くなら、なぜ病気にならないようにする努力をしないのでしょうか。

 あなたの友人が「努力をしていたのにリウマチになった」というなら、その方は「弱者」と言ってよいでしょう。
 救われるべきでしょう。

 ですが、もし「努力もしないでリウマチになった」というなら、それは「自業自得」と言えるのではないでしょうか。

「病気になったのだから救われて当然だ」
「無職になったのだから救われて当然だ」

というのは間違っているでしょう。

すべての人がそうだとはいいませんが、

今、派遣問題などで言われている人の多くは
「好きで病気になった、好きで無職になった」人たちだと思います。
(病気にならないように考えなかった。無職にならないように考えなかった)

この人たちまで救う筋合いは無い。という事です。

_ TAKE(管理人) もう一つ追加 ― 2009年11月10日 00時22分06秒

「神は自ら助けるものたちを助ける」
「人事を尽くして天命を待つ」

この意味を良く考えて欲しいと思います。

_ くろかめ ― 2009年11月10日 02時29分38秒

管理人TAKE氏の、一番語りたかった内容は
『もう一つ追加』
「神は自ら助けるものたちを助ける」「人事を尽くして天命を待つ」
この意味を良く考えて欲しいと思います。

にあることはわかります。しかし、自分が得た成果は、本当に自分の力だけで得られるものなのでしょうか。市場=安定した所得を持つ人々、がいなければ安定的な経済的成果は得られません。

今、反貧困の運動をしている人たちは
「無職になったのだから救われて当然だ」 とは主張していません。
フルタイムで働いても、生活が安定しない人があまりにも多いのはおかしい、と主張しているのです。
現在の最低賃金制度自体がアルバイト・パートタイムを中心とした副収入としての基準です。それが、『おかしい』ということなのです。社会復帰を支援し、その人たちの所得が増えることは、市場の拡大を意味します。「救う」ではなく「ともに救われる」なのです。
このように考えるのは、私が法律学ではなく、経済学を学んでいるためかもしれませんが。(近代経済学のみ。マルクス経済学は学んだことがない。)

行政書士試験が視覚障害者にも門戸を開いているのは初めて知りました。このような取り組みが、もっと広がることを願います。
さまざまな方面にお知らせしたいですね。

補足:リウマチは自己免疫疾患で、確率的に発生します。
   努力で回避できるような疾患ではありません。
   特に女性に多く、全人口の0.5%から1%がかかります。
   つまり、同じ学校の同学年に一人か二人がかかることになります。
   過労、ストレスが引き金になることがあります。

件の私の友人は、いくつものアルバイトを掛け持ちしながら年金生活している母を助け、苦学して介護士の資格をとりました。
やっと生活が安定するかと思われたときに、急性の貧血でリウマチがわかり、今は生活苦の中で療養しています。それでもなんとかパートタイムに働きに出ています。

皆、必死に努力しています。その成果を、なんとかして大きくしたいのです。そのためには『社会復帰の基盤』が必要なのではないかと思うのです。

_ TAKE(管理人) ― 2009年11月10日 19時55分07秒

確かに、「努力をしている」と、その人たちはいうのかもしれません。

ただ、私から見たら、その人たちが行っているのは、ほとんどが『他人と同じ努力』であって、あまり意味がない事の方が多い、と考えています。

>フルタイムで働いても、生活が安定しない人があまりにも多いのはおかしい、と主張しているのです。

確かにおかしいのかもしれません。
ですが、一方で「少しの時間で生活が安定する人」もいます。

この違いは、どこから来るのでしょうか?

少しの時間で安定する人は、ずるをしているのでしょうか?

私は違うと思います。

「努力」を「他人と同じ努力」ではなく「自分にあった努力」をしたからだと考えます。

「一生懸命働いているのに」、「一生懸命『他の人と同じように・他の人よりも』努力しているのに」というのは、はっきりいって理屈になりません。

『今の自分が最大限活かせるように』働いている。
『今の自分が最大限発展できるように』努力をしている。これこそが、未来に繋がると考えています。

松井が、イチローと同じ努力をしても大成しません。
イチローが、松井と同じ努力をしても大成しないでしょう。

才能もあるでしょうが、彼らはそれぞれ「自分に適した努力」を模索しつづけたからこそ、今に至っているのです。
(似ている部分はあっても、個別に異なります)

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 「フルタイムで働いている」のに、という言葉は言い換えれば「(他の人と同じように)フルタイムで働いているのに」という言葉になるのではないでしょうか。

 なぜ多くの人は、「他の人と同じ事をすれば、他の人と同じように収入が得られる」と考えるのでしょう。

 それは「自分の個性・能力」で生きるのではなく、単に「誰でも同じ」労働力を、時間で切り売りして稼いでいるからではないでしょうか。

 自分を「他人と同じ程度」に貶めてしまっているからではないでしょうか。

 「自分の力」を、「時間」や「仕事をこなした量」という単純な評価で決めている。「労働量」だけで、自分の金銭的価値を決めている。

 そのシステムに、自らも乗っかってしまっている事に問題があるのだと思います。

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 では、これを改革するためにはどうしたらいいか?

 簡単です。まず、自分達が、自分を「労働量」で計るのではなく、「自分自身だけが持つ価値」で計るように高めればいいのです。

 「自分自身を高める努力」、「自分だけが持つ力」を得る努力。
 それこそが「成果を高める」基盤そのものだと思います。

 これは「誰かが教えてくれるモノ」「他の人と同じ努力」で身に付くものではありません。

 自分自身がひたすら自分と向き合って、苦しんで、自分だけの努力をした時に身につくものです。

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 この記事を最初に書いた時、
「おれ派遣、おれを撮る…26歳「岩淵監督」が映画化」
と言うことでした。

同じ(とはいえないかもしれませんが)、底辺で「今の自分は何か?」 と、岩淵さんは『自分自身に』問い続けました。

だから、彼は「映画」を撮れたのです。

 多くの人は映画を撮れず、なぜ彼は映画を撮れたのか。 ここにこそ、それぞれの人が「それぞれ抜け出る」道が隠されていると思っています。

 「同じ人生」を歩んでいる人は誰もいません。
 「思考」も「経験」もすべて『自分だけ』のものです。

 「自分の思考・経験」から来る「自分だけが持っている」価値を、「欲しいと思う人・世界に与える」

 これこそが、成功する道だと思います。

※ 例えば、あなたの友人でも、「介護士」としての知識・経験があり、そのうえリウマチの病歴があり、さらに年金生活者と暮らしているという状況ですが、

では、「一般のリウマチ患者を、自分なりに介護する方法は無いのか?」と状況をミックスして考えれば、それだけで『自分だけが持つ』財産・武器になるでしょう。

 多くの人がリウマチで悩んでいます。
 多くの人が、今後、老老介護などで、苦しむ事になります。

 「苦しい状況の人が、どうすれば少しでも楽に介護できるようになるか?生活できるようになるか?」

 自分の経験を元に、ひたすら模索し、この方法を見つけられれば、十分、上にいけます。
 この考えを、他人と組んでうまくビジネスに結びつければ、それだけで大金持ちになれるかもしれません。

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 そんなのは「夢物語」というかもしれません。

 ですが、「人事を尽くす」とは「自分だけができる」努力を最大限に行うことです。
 『誰でもできる・誰もがやっている』努力だけで届くことではありません。

 自分が「その他大勢」に埋没する。「その他大勢」と違いがない。 それでは「人」が存在する意味などありません。

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 いわゆる「成功している人」というのは、「自分自身」を追い求めて、「自分自身の価値」そのものを高めようとした人です。

 あまりお金が無くても幸せに生きている人が、きっと身近にもいると思います。
 彼らをよく見てください。
 彼らは、「他者と比較して」生きていません。
 「金銭的価値云々」だけで生きていませんん。

 自分自身が「自分自身を楽しんで」生きています。
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 近代経済学などでは、否定されてるのかもしれませんが、「個」を軸に考えること。「自分自身」とは何かを考えること。 そして「自分自身」の努力をすること。

 それこそが、社会に「自分の価値」を認めさせる事になるのではないか、と考えています。
 
 はっきり言って、私が、今の多くの派遣労働者を否定するのは、彼らが「自分を見つめて」生きる努力を放棄しているからです。
 一番、「自分を見つめる」チャンスがあったにも関わらず、「自分を薄めて」生きているからです。

 「他人と同じように」認められたい・生活したい。
 それでは「自分」が生きている意味は無い。

 それを『努力』とは、呼ばない。

 こう考えています。

_ TAKE(管理人) 自分で書いていながら長いと思う ― 2009年11月10日 20時22分03秒

今回の「くろかめさん」も同じです。

自分の言葉で語ろうとしているから、私も私の言葉で返そうと思いました。

これが「その他大勢と同じ」程度の意見であったなら、相手にしなかったでしょう。

---
 ですが、「労働」についてだけは、「その他大勢」に埋没しようとする人が多くいる。
 この意識こそが、問題だと思います。

 話はずれますが、「ひな壇芸人」といわれる人たちがいます。
 彼らは、最初は「その他大勢」の1人でしかありません。
 ですが、一生懸命、「自分」を売り込みます。「自分」を創ります。

 そして「自分」というキャラクターを認められた時、前に出る事が許されます。

 「自分」を売り込めず、「その他大勢」で終わった芸人は、いずれ消えていきます。

---
 「労働者(大衆)」といわれる人も同じ事です。

 「その他大勢の1人」でなく、「自分だけ」の力を掴んだ時(努力した時)、「労働者(大衆)」から抜け出せるのです。

 「労働者(大衆)」のままで、(自分を創る努力をせずに)上に上がりたい。

 それこそが、間違った考え方なのだと思います。
----

 それでも「届かない」人もいます。
 見つめなおして、努力して、それでも自分だけでは届かない人もいます。

 そのような人で、力を貸して欲しいと言う人は手伝います。
 そのために、私達のような職業は存在しているのだと思います。

 ですが、「自分」を見つめる努力もしない人は、「まず出直してきなさい。自分を弱者などと言うな」と突き放します。
 彼らは「弱者」ではなく「弱者のフリをしているだけ」ですから。

_ くろかめ ― 2009年11月13日 00時56分11秒

なぜ、TAKE氏の話の筋が通っているのに、釈然としないのか、元々の記事を読み直してみました。

労働市場そのものの捕らえ方が異なると思います。
ここは「釈迦に説法」になると思いながら書いているのですが。
文章の大意は、TAKE氏のコメントに近いと思いますが
私は「労働者側」から見ている形になりますね。

労働者派遣法が採択された時、「多様な労働の仕方のために」が目的でした。たしかに、多様な労働の仕方が提供されるようになりました。
ですが、労働市場の底辺の底割れを起こすような仕組みが隠れていました。

派遣社員が仕事を選ぶ自由よりも
企業が労働力を選ぶ自由が優先された、ということです。
社員を選ぶ自由、ではありません。「労働力」です。
使い捨てだろうが、体を壊そうが、関係ないということです。

ドイツにも、派遣会社法があります。その法律のほとんどは、日本の法律と同じです。ですが、日本ほど派遣会社は流行っていません。

なぜなら、「派遣会社が受け取る手数料は、通常の賃金に上乗せされる」「派遣会社は登録者を正社員として雇用し、賃金を保証する義務がある」「違反企業は罰せられる」のです。

私は派遣業法がバブル崩壊後の賃金圧縮に貢献し、結果として
失業率を下げたことも理解しています。
ですが、その思惑を超え、多くの「ワーキングプア」を生み出すこととなりました。

TAKE氏のプロフィールを確認しましたが、
「行政書士として安易に独立しようとする、甘い考えの者が多い」
「指導をしている立場から、その甘さに渇を入れたい」ということもわかります。

ですが、いわゆるフリーランスと、今問題となっている派遣社員は質が異なります。

倫理学の問題の中に「選択の自由問題」があります。

1.居酒屋で、決められた突き出しを出された。
2.強盗に「金を出せ、さもなくば殺す」と言われた。

どちらが、選択の自由をあたえられているでしょうか。
2番です。金を出せば助かり、出さなければ殺されるかもしれません。
ですが、選択する自由は与えられています。死ぬかもしれませんが。

3.働け、賃金にも処遇にも文句を言うな。
  それがいやなら、解雇する。

これも、選択の自由が与えられています。
労働交渉権が機能していれば「解雇されても訴える」ことが
できますが、現実には交渉をはじめようとするだけで解雇され
再雇用の保証はなく、生活の保障は奪われます。

ですが、そのような生活の保障を簡単に企業が奪う社会が長く続いて良いのでしょうか。
基本となる生活の保障があれば、自分自身に投資もできます。
人は決して将来を簡単に見通せません。甘い見通しをすることもあるでしょう。
ですが、失敗してから後でないと、自分自身を見つめる人もいるでしょう。
そのような人も「復帰できるような社会基盤を確立して欲しい」と思います。

私は一人の会社員ですが、高知の音楽NPOのボランティアスタッフとしても活動しています。
なぜ、音楽活動の支援をしているのか。
きっかけは、「理事長の人格がすばらしい」ですが
個人の思惑としては
「情報の不完全性を取り払い、消費を拡大する」
「中高所得層の消費拡大と、中間所得層の所得拡大」にあります。
高知は千葉と比較すると「ド田舎」ですが、目立ちたがり屋が多いということもあり、すばらしい音楽家がいます。
ですが、その活動は地元でもあまり知られていません。
そのため、イベントの告知ができるようにするだけで一つの市場が出来上がるのです。

また、高所得者の消費割合は、低所得者の消費割合よりも低いことが知られています。
高所得者が消費を増やせば、それ以外の所得階層に所得が移転されます。中低所得層=消費割合が高い階層 に所得が移転すれば、それまでよりも多くの消費として循環します。

自分のわずかな活動が、より多くの人の笑顔を生み、それを楽しみながら、経済が活性化する。これほど楽しいことはありません。
おかげで、余暇が充実したものとなりました。

これが私の「自分自身の価値」の表し方ではないかと思います。

TAKE氏、コメントを返していただき、ありがとうございました。

_ くろかめ ― 2009年11月13日 01時10分39秒

文章の大意が同じ、という肝心の部分が抜けていました。

(私も、「自分だけの努力」をしている人が、成功すると思います。
ですが、それには周りの環境も大事なのではないでしょうか。
私は、周りの環境の法に関心があるのです。)

失礼しました。

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