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定額給付金は「悪」なのか? 3 -ちょっとダレた2009年01月16日 00時51分31秒

3回目、ちょっと手間取って12時超えてしまいました。
連続投稿できず。残念。

おまけに、他に書きたい記事を色々書いた結果、こっち、書く気が少しなえました。
一気に書けばよかったのかもしれませんが、分けて書くとモチベーションが下がります。

しかも、ブログ形式でバラバラに書いているためうまくまとまらず。

こまったものです。

まあ、それはさておき、昨日(というか一昨日)の続きです。

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3・医療他への社会保障への転用

確かに、医療その他の負担がかさんでいるのは事実。
そのための転用というのも「アリ」だと思う。

だけど、元々医療費がかさんでいる原因は何か?
例えば高齢者福祉と言っているが、その福祉は「本当に必要」なのだろうか?
確かに「必要な人」はいる。しかし、多くは「不必要なのに」受けれるからと受けているのではないだろうか?
高齢者社会を迎えるが、今、高齢者を優遇するのであれば「今後も」優遇しきれるのだろうか?

はっきり言ってこの辺りを考えることなく主張する事は、問題だと思う。

あくまで私個人の感覚でいえば、現状は、高齢者福祉・弱者保護の美名の下に、「本当は必要ない人」まで保護しているに過ぎないというのが実感だ。

また本来、「病気になってから」「体が弱くなってから」治療するのでなく、元気なうちから「病気にならないように」予防する方が負担が軽減される。
しかし、これだけ病人・老人があふれかえっている状況を考えると、これら予防を怠っていた事は明白だろう。

ならば、その責任は誰にあるのだろうか?

それは「今まで予防を怠ってきた」本人にあるのではないだろうか?

その「自ら怠ってきた」人『のみ』を「弱者」と言って保障しようとするのは、どうなのだろう。それが社会的公平といえるのだろうか。

ならば、人は「真面目にやるほど損」という事にもなる。

実際、最近の生活保護制度にも見られる事だが、「生活の保障」「弱者保護」の大盤振る舞いの結果「真面目に生きるより、生活保護を受けた方が得」という状態も一部発生している。

これは、社会の状況として異常だろう。

私は何も、生活保護、医療保護など無くてもいいと言っているのではない。「不要な社会保障」が発生しているために「必要な社会保障」が回らないというのがおかしいと言っているのだ。

したがって、社会保障云々を言うのであれば、まずは「この手の大盤振る舞い」をやめるべきでは無いだろうか?

その視点から言えば、民主党の社会保障費の転用は、「全体に行き渡る」というモノを「一部の人にのみ渡らせる」という事であり、社会的に不公平な発想だと思う。

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4.小中学校の耐震補強への転用

……ゼネコンバラマキ?

この一言に尽きると思う。
確かに「子供のために」といえばその通りなのだが、「耐震補強工事の費用を増やす」という事は建設業者に対し「公共工事を増やす」という事に他ならない。

で、どうなるかというと「建設業者が潤う」だけ。

「無駄な道路を作らせるな。ゼネコン反対。公共工事の減少を」などと言っていたはずなのに、「建設業者へはばら撒く」というオチ。

一箇所の業界を中心にばら撒く事の問題は、1で述べたのでこれ以上、指摘する事もないだろう。

ただ、自民の「ゼネコンバラマキ」を批判しておきながら、「子供のための学校は大切だから」と民主党の「ゼネコンバラマキ」を行う。
相変わらずのダブルスタンダードだと思う。

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補足:民主党の矛盾・今回も民主党を支持できないわけ。

基本:「バラマキを行う」という点では自民党と変わらない。
ただし:「バラマキの対象」を「全体に薄く広く」では無く、「集中的に範囲を絞って厚く行う」。

民主党の主張はまとめるとこうなります。

つまり、今回、方法は違うが「民主党の主張も『バラマキ』である」という事。ならば「バラマキは悪である」という主張をすべきではないだろう。
しかし民主党が今行っているのは、「バラマキは買収行為であって悪である」という主張。
この主張を認めるならば、民主党の行為も「悪」として自ら認めなくてはいけない。
にも関わらず「自民党がやっているのはバラマキだ」と自分達の行為を棚に上げる。

これは、政策主張としては3流以下と言っていいだろう。

もし、民主党が自民党と真っ向から政策勝負を行うのであれば、
「定額給付金」を「ばら撒き」と定義するなら、「バラマキを行わず、景気回復を図る」方法を主張しなければいけなかった。
もしくは「ばら撒き」を必要とするなら、「定額給付金方式では景気回復の効果が低く、集中投下による景気回復を図るべきだ」と主張すべきだった。
方法論の問題ならば、「自民党の人気取り政策で『悪』」などという善悪論、悪党論を主張してはいけなかった。

だが、民主党がやったのは、善悪論で「資本投下」を否定・非難しておきながら、自らも「資本投下」を主張した。
単なる「方法論とその効果」について論ずればいいものを、国民受けしやすくなるように「善悪論」に持ち込んだ。

 必要な事を必要な事実・論理によって展開するのでなく、ごまかしの善悪論を持ち込み必要な論理を消滅させる。
そんな民主党を今回も支持する事ができないのだ。

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今までの論理、特に総論の論理を読めば解るが、私は、民主党の方策も「間違ってはいない」と考える。
それなりに効果はあると思う。
「資本(戦力)の集中運用」は、いかなる状況下においても有効な戦術である事は私自身も認める。

ただし、この手法は「一部のみに資本投下を行い『一部のみ優先的に回復を図る』」という手法であって「全員が同時期に景気回復できる」という策ではない。

これを『きちんと説明して』国民の支持を取り付けているならば良いのだが、民主党の主張を読む限り、この部分をまったく省いている。
ここが一番納得がいかないところだ。

ならば、「馬鹿」だけど「正直」に全体交付を主張している自民党の方が、国民を「騙していない」分だけ、今の国民にとって「真に有用な」政党だと考える。

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その3を書く段階になって、考えれば考えるほど民主党の浅さ・愚かさぶりが目に付いてしまったため、書く気力をだいぶうしなってしまいました。
(他の記事の方に気合が入ってしまいましたし)

もっと詳しく書いていけばよかったのですが、ブログという事で書きなぐっているため、ちょっと後半ダレましたがお許しください。

ただ、『民主党が「方法論」を「善悪論・買収論・迎合論」でごまかしているのは許さない』。これが私の根底の一つです。

他の部分は、いずれもう少ししっかりまとめたいと思います。

コメント

_ BONTRA ― 2009年02月27日 21時28分26秒

>これだけ病人・老人があふれかえっている状況を考>えると、これら予防を怠っていた事は明白だろう。
>ならば、その責任は誰にあるのだろうか?
>それは「今まで予防を怠ってきた」本人にあるのでは>ないだろうか?
予防医学で医療費は抑制することはできません。
なぜなら、死亡時に膨大なコストかかるので、予防医学はそれを先送りすることになります。
結果として、予防医学を進めると、寿命が延びて医療費、年金などの社会保障費が増加します。合成の誤謬(笑)。
麻生首相が批判されたのは予防医学で医療費が増えることを知らなかったからでしょう。

あと、病気の原因は国の責任が大きいです。糖尿病の場合は規制緩和(大型店の増加で運動不足)、農業政策(小麦の輸入を減らさなかった)、都市の郊外化(車依存)が増加の主因です。
既に40歳以上の国民の50%が糖尿病か軽症糖尿病で、若年層にも増えています。

_ TAKE(管理人) ― 2009年02月28日 03時31分29秒

コメントありがとうございます。ただ
>予防医療で医療費を抑制する事はできなません
 との事ですが、そうでしょうか?

基本的に「リスクマネジメント」の考え方で記述します。

 『リスクマネジメント』とは、
1・リスク発生率を低減化する。(事前回避・予防)
2・リスクが発生した場合のダメージを減少する。(事後対策)
この二つから成り立っています。

これは、いかなる事象においても活用可能な基本思考、簡単に言えば「事前の回避と事後の対策」です。
そして「人の一生」においてもこの基本思考は適用できる事だと考えます。

 なお、今回述べた、医療費問題については、麻生総理の論理はともかく(というか「私の論理」を述べただけであって麻生総理の論理はどこにも書いていないので、私が書いた事を「麻生総理の論理」と書かれると非常に困ります。)

で、私の基本思考は
「ある程度の事前予防・回避」によって、病気による「被害を軽減化」、「病気にならないようにする」ことは可能と考えています。

そして、通常「事前対策コストは、事後発生対策コストより低い額で済む」と言う発想で考えています。

 ちなみに、私がここで述べている『事前対策コスト』(予防)とは、
「特別なクスリ」や「特殊な機械・道具」による高費用がかかる対策ではなく、運動や食事その他生活改善により、体質を『自然状態において改善』する事によって「病気にかかりづらくする・老化しづらくする」という、古来からの低コスト『予防』です。
 説明が少なかったかもしれませんが、この古来からの低コスト『予防』を用いれば、現在の「病気発生率」は低減されると思います。そして「病気発生後の対策費用」も軽減されるものと考えます。

 「どれだけ体を鍛えても、どれだけ日常生活を改善しても病気に係る可能性(発生率)を下げる事はできない」のでしょうか。
 また「日常生活の改善」費用は「病気後の治療コスト」よりも高いのでしょうか。
 私は、「日常生活の改善」費用は、ほとんど0に近いものだと考えていましたが、「日常生活を改善する」事はそれほど高額な費用を要するのでしょうか。

私は、そんな事は無いと考えています。 
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また
>なぜなら、死亡時に膨大なコストかかるので、予防医学はそれを先送りすることになります。
予防医学を進めると、寿命が延びて医療費、年金などの社会保障費が増加します。合成の誤謬(笑)。

これは「発生後」の「事後対策」の問題です。

「被害をどこまで許容するか?」
「どの程度の被害で、打ち切るか?」
という「事後対策としてどこまで行うか?」という問題です。

逃れられない「死」という最終被害に対して、どこまで治療・延命を行うのか?
「老化」という、劣化被害に対してどこまで補修・補強するのか?
という問題です。

これは、本来、「事後対策」について「現行より効果的な事後対策」が無いか?
という事を論じる問題であって別箇に考える事です。

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すべてのものは、
新品の状態から徐々に劣化しいずれ壊れます。

「壊れきるまで補修し続け、使い続ける」のか
「壊れきる前に、ある一定段階を超えたら破棄する」のか、補修費用・維持費用・そして最終局面の捉え方。
このすべてを含めて考えるのがダメージコントロールです。
人間の場合は、「人生の在り方」です。
これは、「尊厳死・安楽死問題」などを含めて考える事だと思います。

また、「発生後のダメージコントロールコストは事前に何をしようと変わらない」というのは、「より効果的事後対策」を考えることなく「既存の事後対策」しか捉えていない考え方だと思います。

本来、「事前予防・回避」「事後対策」は、両者を含めて考える事が大切です。
「事前措置だけ変えて、事後対策は改善しない」という事はありえません。

ただ、今回は、自民・民主共に、その話ではなく「現状の事後対策規模を増やすかどうか」という論理だけで話しているので、ここまでは述べませんでした。
 しかし、本来、事前予防・回避については、昔から民間においても言われていたことであって特に新しい考え方ではありません。国が主導しなければ生まれない思想ではありません。
「国が積極的に推進しないのだから自分達もやらなくていい」
 そういう問題ではありません。

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繰り返しますが、上記の考え方を抜きにしても、
「病気発生率を低減化」できれば、「発生後の被害総量」は低減化でき、「事前費用は事後対策費用より低い」というのが持論です。

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後、
> あと、病気の原因は国の責任が大きいです。糖尿病の場合は規制緩和(大型店の増加で運動不足)、農業政策(小麦の輸入を減らさなかった)、都市の郊外化(車依存)が増加の主因です。

違います。
すべて「個人の責任」です。
 確かに、近くに大型店はできました。
 確かに、小麦を食べる回数は増えました。
 確かに、都市の郊外化(車依存)は増えました。

 ですが、日常生活において
 摂取した栄養素・カロリーと消費量をコントロールするのは「国」ではなく、個々人です。
 「近くに郊外店ができたから」といって「近くの郊外店で購入するよう」に義務付けられた訳ではありません。
「小麦が増えたから」といって「小麦をを食べるように」義務付けられた訳ではありません。
「車に乗る回数が増えた」からといって「歩くな」と義務付けられたわけではありません。

どこまでいっても、
『低きに流れる事』 を選んだのは『個人』です。

単に、自分達が食を抑制せずに高カロリー摂取を続け、自分達が日常生活においてカロリー消費をする事を怠っただけです。その結果、糖尿病になった。それだけの話です。
 都市生活者であっても、摂取と消費をバランスよく行う事は可能ですし、実際に行っている人も多く存在します。
 これを「自分達が安易に怠惰に流れた」結果、糖尿病になったからと言って、それを「国」のせいにするのは明らかに間違っていると思います。

※ ちなみに、偉そうにいえた話ではありませんが、
私も軽症糖尿病のケがあります。
 ですが、少なくとも私が軽症糖尿病の疑いがあるようになったのは、自分が運動を怠っていた事と自分が食制限をせずに美味しい物やジャンクフードなどを好んで食べていたからです。
 どこまでも「自分が節制を怠って、誘惑に負けたから」です。

 『自分の愚かさ』『自分の弱さ』を、国のせい他人のせいになどしようとは思いません。

_ TAKE(管理人) 追記 ― 2009年02月28日 04時13分23秒

どのような対策をとっても「医療費総量」は変わらない。
というのが「医療経済学者」の定説ですが、

本来、「自然に寿命が延びた」場合、「医療費が増える」事はありえません。

『医療』というのは、「人の行為」であって「自然の事象」では無いからです。

彼らの論理を正確に言えば

「人為(治療)によって、寿命を『延ばした』」から『延ばした』分だけ費用がかさむ。という論理です。

もっと厳しく言えば、
「医療技術(修理技術)が進歩したから」という理由だけで
「医療回数(修理回数)を増やして人間の寿命(モノの対応年数)を延ばす」
「そのために医療(補修)費用がかさむ」
というだけの論理です。

で、この根底思想には
「人間の寿命は延びれば延びるほど幸せである」
「医療が進歩した以上、その医療で直す事が絶対に正しい」
という思想が見え隠れします。

確かにそのような考え方があってもいいと思います。
ですが、これは「絶対の思想」ではありません。

どこまでいっても、ある一つの死生観です。
一方的な思想でしかありません。

すべての人間が持つ「共通の思想」ではありません。

 確かに「技術者側(医者側)」は「最高の技術(医術)をもって事に挑む」事を基本とするのは当然です。
 ですが、受ける側がそれを望むかどうかは別の問題です。

彼らの思想によって考えれば、
「安楽死・尊厳死」
「自らの生を選ぶように死を選ぶ」という思想が成り立ちません。
 「技術がある以上、その技術により人は治療を受け延命する」という思想を前提とした論理ですので。
----
 人がどのように人生を送り、どのように終末を迎えるか?何回、医療(修理)を受けるか?
 それは、本来、個々の自由意志に基づくものであって、彼らの論理だけが正しいわけではないと考えます。
 死生観はそれぞれの立場・あり方によって考えるべきだと思います。

 にも関わらず、「人は寿命が延びれば(治療可能であれば)治療を受け続けるのが基本である」という思想で論じている。

彼らの述べている事は、一見「経済論」のように見えますが、「一つの死生観」(思想)を根拠として述べているだけなので、経済論としては非常に問題があると思います。

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