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「産む機械」 発言は認めないが、行為は認める不思議な人々2007年01月31日 03時25分34秒

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070128-00000005-maip-pol

柳沢厚生労働省大臣の発言について、否定的意見が多いようだが、
そもそも、この思想自体は、すでに多くの国民に実質的に受け入れられていると思うのだが、どうだろう?

実際、すでに事実的に「機械」として使われている点について言及する人がほとんどいないのだが、これについてはどう思うのだろうか?

柳沢厚労大臣を批判する人は、次の行為についてどのように考えるのか示して欲しい。

それは『「代理母」による出産』についてである。

「代理母出産」とは、「自分が産めないから、産める人に代わりに産んでもらう」という制度であり、まさに「出産できる人」を「自分の子を産ませるための機械」として扱っている制度そのものだと思う。

実際、「代理母出産反対論者」には、このように「人を機械として扱っている」「子供を工業製品を作り出すような考え方」として反対している方もいます。

このような、代理母出産反対の人々が、柳沢発言を非難するのならわかるが、仮に、あの向井亜紀にみられるような状況で「子供を持つ権利がある」などと、代理母制度を肯定したのであれば、少なくとも、柳沢発言を非難することなどできないだろう。

なぜなら、「行為」そのものは認めるが、「発言」は認めないという矛盾を生じるのだから。

この矛盾を解決できない人は、新聞報道などを流行として飛びついてその場限りの意見をいうだけで、きちんと論理だてて考えてはいないということなのかもしれませんね。

http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-276.html
実際、この人のブログなどは、傾聴に値します。
つまり、主義主張が「一貫しているから」

…まあ、私の考えとはあっていないのですが。

意見が合わないからといって、その人の「一貫性」を批判することはできません。

さて、私個人の考えとしては、
「生殖行為について」のみ見れば、

「女性」は「出産する存在」である以上、ある意味「機械」だと思う。
が、同時に
「男性」も「精子を作る存在」である以上、同様に「機械」でしかない。

生物論として捉えるならば、
セックス自体、単なる「生殖活動」にしか過ぎず、
男性が精子を体内で生成し、女性に引渡し
女性の胎内で、女性が生成した卵子と結合し、着床させることで
「受胎」する。
という機械的行為にしか過ぎないと思います。

そういう意味では、どちらも「道具」であることに代わりはないと思います。

男性上位、女性蔑視でもなく、単に『両方とも生体機械』ということではないのでしょうか?

感情面において「自己の子を作る」ということに、高い意義を見出すこともあるのかも知れませんが、「自分の子」でなくても愛せる以上、「自己の子」というものに拘泥する理由は、単なる自己意識上の問題でしかないと考えます。

ならば、生殖行為の本質とは何なのでしょうね?
これは、個々に考えることなのかもしれません。

----

おまけ

しかしながら、この矛盾に関する件については、
政党である民主党の「いい加減さ」は、あきれる限りだと思う。

「代理母制度」自体は、よいことだ。 としながら(2006年12月)
「人を出産の機械」として扱うことは いけない という。(2007年1月)

結局、その時々の人気取りのために、コメントしているだけなんだろうな。

これで「2大政党を目指す」などといわれても、まったく信用できないんだけど。

コメント

_ muse ― 2007年01月31日 21時43分44秒

こんにちは。
機械と言う言葉には、ある特定の目的を果たす以外に意義がないもの、というニュアンスがあります。そういう意味で今回非難されているのだと思います。だから、代理出産の問題はまったく関係ないと思います。なぜなら、代理母は代理出産以外の行為の意義を剥奪されたりなんかしないのですから。

_ TAKE ― 2007年02月01日 01時09分32秒

コメント感謝します。
しかしながら、この辺は、見解自体の相違があるかもしれません。
そもそも、「機械」には特定の目的を果たす以外にも、「存在することだけで意味がある」と私は考えています。
例えば、骨董品などについていえば、故障していたとしても、その「存在」自体において意義を有するようになります。

また、元々、私の思想・倫理においては、「道」教がベースのため、機械であろうと人であろうと大差なく捕らえています。(人の方が機械や他の動物より優れているとは考えていません)。
ですので、私からしたら、人間を「機械」とたとえても、それ自体が侮蔑となることはありません。

まあ、この辺は「人とは何か」など、倫理・宗教・思想感をどう持っているか?という部分になりますので、個々人の思想を言及してもしかたないのですが。

とりあえず、柳沢自身がどう考えているかはべつとして、私自身としては、別に柳沢発言自体は目くじら立てることではないと捉えています。

_ 春霞 ― 2007年02月02日 00時49分58秒

はじめまして。記事での紹介、ありがとうございます。

>そもそも、この思想自体は、すでに多くの国民に実質的に受け入れられていると思うのだが、どうだろう?

確かに、未だに多い「日本人男性の女性観」でしょうね。東南アジア諸国の報道機関は、柳沢厚労相の発言をよく納得していましたし、今回のことで世界的に認知された、日本人男性の女性観でしょう(苦笑)。

>実際、この人のブログなどは、傾聴に値します。
>つまり、主義主張が「一貫しているから」

ありがとうございます。
柳沢厚労相の発言と代理出産問題を関連させて論じてみましたが、代理出産問題はちょっとおまけとして論じてみた感じです。代理出産の是非については多くの理由・問題点がありますから、柳沢厚労相の発言問題とは少しだけ関連する感じでしょうか。

_ BLACKBIRD ― 2007年03月29日 01時59分07秒

事実を在りの侭に言う事は正しいのでしょうか?
例えば髪の毛の不自由な人に「○ゲ」と面と向かって言っても、事実だからって許容する人は多数派って事ですか?
ふくよかな人に事実だからって「○ブ」と面と向かって言っても大丈夫って事ですか?
単なる言葉狩りじゃなくて、やっぱり厚生労働省の大臣の発言としてはやや一般的な言葉遣いの配慮が足りない様な気も。
○○マシーンとかの様に技術の有る人を機械に例え誉め言葉と捉える人も居ますが、否定的な意味に捉える人も多いから問題に成るのでは?
と言うか発言の前置きで既に不適切な例えとして大臣自身謝ってます。そんな前置きが必要な言葉は大臣としては不適切かと。
普通自分の母親に向かって生む機械と比喩する勇気は有りませんな。

_ TAKE(管理人) ― 2007年04月02日 19時23分15秒

BLACKBIRD さま コメントありがとうございました。

>単なる言葉狩りじゃなくて、 (以下略)

確かに「不適切な言葉」を使ったといえるのかもしれません。

ならば「不適切な表現」を問題にすればよいだけです。
そして「不適切な表現を使ったこと」については、すでに謝罪しています。

今回の問題については、「不適切な表現」ということが問題なのであれば、謝罪した以上「解決した」と考えてよいと思います。
(辞任するほどの不適切な表現だったとは思えません)

ところが、現在問題視している人の多くは、
「表現の不適切さ」を問題にするのではなく、「そのような不適切な表現を使うのは、人間として不適切な思考を持っているからだ(男尊女卑思想・「人間を機械としてみている」思想等)」としています。

ここに、私は疑問点を感じているのです。

これが「人間を機械として見るなんて間違っている」という「思想」上の問題というのであれば、他人の子宮を胎児育成のための道具として利用する「代理出産」についても、同様に否定するか、何らかの別な論理展開をしなければいけないはずです。
しかしながら、そのような論理展開をすることなく、「代理出産を認めよう」としつつ「人間を機械のように扱うなんていけない」とする。

この意識の矛盾が問題だといっているのです。


---
なお、私自身は「人は生物であり、生物の本質は(子孫を作ること)」そういう意味では、人は、他の動物すべてと何ら代わりはない。
ですし、
「存在」という概念の上では、無機物と有機物(生物と非生物)に違いは無い。
と、考えています。

(というか、説明が下手でうまく伝わらないかもしれませんが、多くの宗教の根源は、基本的にこの「自他同一」の概念になっていると思うのですが)

ですので、私の中では、表現自体も「不適切」とは感じていません。

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_ 玄倉川の岸辺 - 2007年03月27日 19時22分26秒

子供のころ初めて読んだ「大人向けの本」は星新一のショートショートだった。
そのころからずっとSF小説を読みSF映画・アニメを見続けている。
マニアとか筋金入りとはとても言えないが、長年のSFファンとしてたいていの「非人間的」「非常識」「非倫理的」なアイデアには驚かない。
たとえばロバート・J・ソウヤーのネアンデルタール三部作では「ホモ・サピエンス・サピエンス(人類)が滅び、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が高度な文明を築いた並行世界」の姿が描かれているが、その世界はずいぶん非人間的だ。

ブックレビュー:《ネアンデルタール・パララックス》 シリーズ

ソウヤーの描くネアンデルタール世界には戦争はなく、犯罪はほとんど起きず、技術は進歩し、人口は抑制され環境問題も存在しない。
これだけだと理想的な世界のようだが、その代償として
  「宗教が存在しない」
  「すべての成人は腕に電子装置を移植し行動履歴が記録される」
  「犯罪を犯したものとその家族には断種処置が施される」
という条件がある。
「宗教の存在価値を否定」「プライバシー侵害」「優生学の社会的応用」どれも現実の世界では「人権を損なう・非常識な・非倫理的な」アイデアだが、SFの架空世界なら「むしろネアンデルタール社会のほうが合理的かも」と想像して楽しむことができる。

代理母とか、その延長線上にある人工子宮についても、それがSF的アイデアであれば驚きはしない。
代理母は「家畜人ヤプー」(未読)で描かれているそうだし、人工子宮は「すばらしい新世界」や「断絶への航海」でおなじみだ。
だから未来の選択肢として「代理母という方法を認めるかどうか議論する」のをタブーにするつもりはない。

だが、先日の最高裁判決をきっかけに噴き出た「現実に行われているのだから、代理母を法的に認めるのが当然」と言いたげなマスコミ論調や一部世論にはたじろぐ。引く。空恐ろしくなる。「『アイデア』と『現実』の区別がわかってるのか?」と問い詰めたくなる。
核燃料加工施設で職員がウラン溶液をバケツで移して臨界事故が起きたことがある。
   東海村JCO臨界事故 - Wikipedia
「代理母が行われている現実にあわせて法律を作れ」という発想は「バケツ移送の現実に合わせてマニュアルを書き換えろ」と似てはいないか。

柳沢厚労相の「産む
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