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日本語の読めない馬鹿がほざく ― 2008年12月08日 14時57分36秒
時間軸は前後するが、気になった記事を拾ってみる。
「さもしく1万2千円欲しい人も…」定額給付金で首相発言
12月7日1時19分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081207-00000001-yom-pol
これは別に間違っていないと思う。
で、問題なのは、この言葉に反応しているネット連中。
……というか、ヤフーが偏向的にブログを拾っているのかもしれないが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20081207-00000001-yom-pol
馬鹿じゃないの? 反応している人。
誰が、「1万2千円を貰う人がさもしい」って言ってる?
『一億とか貰っておきながら、なおも1万2千円を貰おうとしている人』がさもしい。って言っているんだよ。
ていうか、その手の(高額所得者で困窮していないのにさらに1万2千円もらう)人たちを「自分達と同じ立場の人」なんてあなた方は言うんだ……
自分たち自身が、その手の人たちに「お前達には必要ないだろう!!なんで貰うんだ!!」って思わないわけ?
これを「マスコミ報道などにあわせて言葉尻だけ捉えてあげつらう」
そんな事をやっている以上、悪いが「所得も低くて、知能も低い」と言わせてもらおう。
ていうか、「その程度の知能だから、その程度の収入なんだよ」と言ってもいいかな。
大体、この元記事自体をきちんと読めば、
>「貧しい人には全世帯に渡すが、『私はそんな金をもらいたくない』という人はもらわなきゃいい。(年収が)1億円あっても、さもしく1万2000円が欲しいという人もいるかもしれない。それは哲学、矜恃(きょうじ)の問題
と「ちゃんと」書いてある。
この発言、何か間違ったところがあるのか?
この程度の日本語を読解する能力も無いわけ?
何だろうね、「自分の都合のいい単語」だけを読んで理解した気になる。
これで、よく世の中を渡っていけると思う。
……まあ、この程度の読解力の集団が今の日本人の平均だというならば、日本が衰退するのは当然だけどね、ホント。
「さもしく1万2千円欲しい人も…」定額給付金で首相発言
12月7日1時19分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081207-00000001-yom-pol
これは別に間違っていないと思う。
で、問題なのは、この言葉に反応しているネット連中。
……というか、ヤフーが偏向的にブログを拾っているのかもしれないが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20081207-00000001-yom-pol
馬鹿じゃないの? 反応している人。
誰が、「1万2千円を貰う人がさもしい」って言ってる?
『一億とか貰っておきながら、なおも1万2千円を貰おうとしている人』がさもしい。って言っているんだよ。
ていうか、その手の(高額所得者で困窮していないのにさらに1万2千円もらう)人たちを「自分達と同じ立場の人」なんてあなた方は言うんだ……
自分たち自身が、その手の人たちに「お前達には必要ないだろう!!なんで貰うんだ!!」って思わないわけ?
これを「マスコミ報道などにあわせて言葉尻だけ捉えてあげつらう」
そんな事をやっている以上、悪いが「所得も低くて、知能も低い」と言わせてもらおう。
ていうか、「その程度の知能だから、その程度の収入なんだよ」と言ってもいいかな。
大体、この元記事自体をきちんと読めば、
>「貧しい人には全世帯に渡すが、『私はそんな金をもらいたくない』という人はもらわなきゃいい。(年収が)1億円あっても、さもしく1万2000円が欲しいという人もいるかもしれない。それは哲学、矜恃(きょうじ)の問題
と「ちゃんと」書いてある。
この発言、何か間違ったところがあるのか?
この程度の日本語を読解する能力も無いわけ?
何だろうね、「自分の都合のいい単語」だけを読んで理解した気になる。
これで、よく世の中を渡っていけると思う。
……まあ、この程度の読解力の集団が今の日本人の平均だというならば、日本が衰退するのは当然だけどね、ホント。
偉人かどうかは別にして、「卓越した指導者」ではあった ― 2008年12月08日 23時23分24秒
アイドルが「ヒトラーおじさん」偉人と紹介 テレビ東京謝罪
12月8日21時19分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081208-00000595-san-soci
まあ実際、どのような取り上げ方をしたのかは知らないので、その事について述べる気は無い。
ただ、ヒトラーの「善悪」は別として、ヒトラーが「卓越した指導者」であったという事実。
これは否定してはいけないと思う。
ここで勘違いは、して欲しくない。
確かに「最終的な方向性」に問題があった事は自分も否定しない。
「方向性」については認めない。
だが、あの当時のドイツを建て直し、軍事大国にまで仕立て上げた「能力」そのものは、否定する事はできない。
「方向性が間違っている」=「能力が無い」と、安易に否定する事こそ、最も短絡的で無知な行為だと思う。
単なる「馬鹿」ではあそこまでドイツを建て直し、第2次世界大戦に突入することなど不可能だった。
それだけは認めないといけない。
そして、そこから「政治能力・指導者としての有効な手法」については学ばないといけないだろう。
よく、私は「目的のために手段が肯定される事は許されない」「目的と手段はその評価を分けて考えなければならない」と言っている。
これは、このようなヒトラー相手でも同様だ。
上の論理は逆説的に言えば、
「目的が悪かったから」という理由だけで「手段が否定される事」も許してはならない、という事に繋がるからだ。
だから「目的」と「手段」を分けて考え、あえて大声で言いたいと思う。
「ヒトラーの政治手法・指導者としての活動については学ぶべき点が多くあり、その指導能力が傑出した人材であったという事は否定してはいけない」と。
・たとえ『悪魔』であったとしても、だから『無能』とは限らない。
この事を忘れてはいけないと思う。
----
感情に流されて、「事実」から目をそらす。理性で判断しようとしない。
そのような意識こそが最も危険な状態だと思う。
12月8日21時19分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081208-00000595-san-soci
まあ実際、どのような取り上げ方をしたのかは知らないので、その事について述べる気は無い。
ただ、ヒトラーの「善悪」は別として、ヒトラーが「卓越した指導者」であったという事実。
これは否定してはいけないと思う。
ここで勘違いは、して欲しくない。
確かに「最終的な方向性」に問題があった事は自分も否定しない。
「方向性」については認めない。
だが、あの当時のドイツを建て直し、軍事大国にまで仕立て上げた「能力」そのものは、否定する事はできない。
「方向性が間違っている」=「能力が無い」と、安易に否定する事こそ、最も短絡的で無知な行為だと思う。
単なる「馬鹿」ではあそこまでドイツを建て直し、第2次世界大戦に突入することなど不可能だった。
それだけは認めないといけない。
そして、そこから「政治能力・指導者としての有効な手法」については学ばないといけないだろう。
よく、私は「目的のために手段が肯定される事は許されない」「目的と手段はその評価を分けて考えなければならない」と言っている。
これは、このようなヒトラー相手でも同様だ。
上の論理は逆説的に言えば、
「目的が悪かったから」という理由だけで「手段が否定される事」も許してはならない、という事に繋がるからだ。
だから「目的」と「手段」を分けて考え、あえて大声で言いたいと思う。
「ヒトラーの政治手法・指導者としての活動については学ぶべき点が多くあり、その指導能力が傑出した人材であったという事は否定してはいけない」と。
・たとえ『悪魔』であったとしても、だから『無能』とは限らない。
この事を忘れてはいけないと思う。
----
感情に流されて、「事実」から目をそらす。理性で判断しようとしない。
そのような意識こそが最も危険な状態だと思う。
手段は色々あっていいと思う ― 2008年12月09日 00時58分53秒
何か、今日はまとめて色々書いているな。
子供の携帯電話持ち込み/松沢知事が一律規制に異論
12月8日17時1分配信 カナロコ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081208-00000019-kana-l14
これについては、松沢知事の方に一理あると思う。
「学校内で携帯は使うべきではない」
これは両者共に一致しているが、その解決方法が
だから「持ち込ませない」という一論のみが正しいという事は無いと思う。
学校に来た時点で、担任に預けるなりロッカーに保管するなり「それ以外の対応方法」というのもあると思う。
こう書くと、学校側(先生)に負担をかけるのか!!というお叱りの声が出るのかもしれないが、ならいっその事「携帯電波妨害機」を校舎内に設置して、校舎内で強制的に携帯を使えなくするようにすればいいのではないだろうか?
『物理的に使用不可能』としてしまえば、持っていても問題は無い。
違うだろうか?
これには「教師も使えなくなるのはまずい」という意見もあるかも知れないが、そもそも教師だって「校内で携帯が必要になる」という事態は無い。
校内にいる限りは、通常電話で職員室にかけてもらい、校内放送で呼び出してもらえば対応できるはずだ。
他にも、考えれば色々な手段は思いつく事だろう。
----
今回、この手の話で、少しおかしいと思うのは、
「一つの案」が出た時に、その案に集中して「それ以外の可能性を認めない」というような流れがあることだ。
すべての人が「同じ考え」でしかモノを考えなくなる、認めなくなる。
その事に、恐怖を感じずにはいられない。
子供の携帯電話持ち込み/松沢知事が一律規制に異論
12月8日17時1分配信 カナロコ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081208-00000019-kana-l14
これについては、松沢知事の方に一理あると思う。
「学校内で携帯は使うべきではない」
これは両者共に一致しているが、その解決方法が
だから「持ち込ませない」という一論のみが正しいという事は無いと思う。
学校に来た時点で、担任に預けるなりロッカーに保管するなり「それ以外の対応方法」というのもあると思う。
こう書くと、学校側(先生)に負担をかけるのか!!というお叱りの声が出るのかもしれないが、ならいっその事「携帯電波妨害機」を校舎内に設置して、校舎内で強制的に携帯を使えなくするようにすればいいのではないだろうか?
『物理的に使用不可能』としてしまえば、持っていても問題は無い。
違うだろうか?
これには「教師も使えなくなるのはまずい」という意見もあるかも知れないが、そもそも教師だって「校内で携帯が必要になる」という事態は無い。
校内にいる限りは、通常電話で職員室にかけてもらい、校内放送で呼び出してもらえば対応できるはずだ。
他にも、考えれば色々な手段は思いつく事だろう。
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今回、この手の話で、少しおかしいと思うのは、
「一つの案」が出た時に、その案に集中して「それ以外の可能性を認めない」というような流れがあることだ。
すべての人が「同じ考え」でしかモノを考えなくなる、認めなくなる。
その事に、恐怖を感じずにはいられない。
「倫理」の転換期か? 新たな「親子」の可能性と問題点 1/2 ― 2008年12月14日 17時38分25秒
夫婦以外の精子・卵子使った体外受精容認へ…生殖医学会方針
12月13日14時47分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081213-00000028-yom-sci
生殖問題。
前に代理出産の問題などでも何度か取り上げているが、今回も取り上げようと思う。
さて、この問題、
浅いレベルの「倫理(感情)」だけで考える事はやめておいたほうがいいだろう。
感情(倫理)を持ち出して、目の前にある「技術的に可能」(存在できる)という事実を、「存在させてはいけない」としさらには「存在しない」としてしまうようではいけない。
このように考える事は、単に『事実』から目をそむけ「無かった事」にするだけで、問題を解決する事から遠ざかるだけの事でしかないからだ。
そもそも倫理などは、その時の社会状況で変わるものであって絶対不変の論理ではない。妊娠・出産論については、本来「自然受胎・自然妊娠・自然出産」以外の方法は、すべて「人為的な処置」が行われるものでしかない。
ならば、「倫理的に」という理論(感情論)の根拠を探れば、これら以外の方法はすべて禁止となるだろう。
『神聖な出産行為に、人工的に関わるのはよろしくない』という論理なのだから。
このあたり、「これは技術が確立されているから」とか「これは安全だから」とかいう人もいるだろうが、いかなる技術も初期段階では「安全性が確立」されている事はありえない。
何度も実施での試行錯誤を繰り返して「より安全な方法」が確立されていくだけなのだ。
だから、「現時点で確立されていないから」「新しい技術だから」社会認知が無い以上、採用すべきではない。
という論理は取りえないと思う。
と、まあ、「倫理」のしかも感情論だけで論ずる事の愚かさを書いてみたのだが、この問題、実は「倫理上・心理上」の問題が深く根底に存在している。
- その2へ続く
"http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/12/14/4008726"
------
※ 参考自筆記事 代理出産はSF世界で言われつつけた問題
― 2008年03月01日 00時37分31秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/03/01/2675507
「産む機械」 発言は認めないが、行為は認める不思議な人々
― 2007年01月31日 03時25分34秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2007/01/31/1153195
12月13日14時47分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081213-00000028-yom-sci
生殖問題。
前に代理出産の問題などでも何度か取り上げているが、今回も取り上げようと思う。
さて、この問題、
浅いレベルの「倫理(感情)」だけで考える事はやめておいたほうがいいだろう。
感情(倫理)を持ち出して、目の前にある「技術的に可能」(存在できる)という事実を、「存在させてはいけない」としさらには「存在しない」としてしまうようではいけない。
このように考える事は、単に『事実』から目をそむけ「無かった事」にするだけで、問題を解決する事から遠ざかるだけの事でしかないからだ。
そもそも倫理などは、その時の社会状況で変わるものであって絶対不変の論理ではない。妊娠・出産論については、本来「自然受胎・自然妊娠・自然出産」以外の方法は、すべて「人為的な処置」が行われるものでしかない。
ならば、「倫理的に」という理論(感情論)の根拠を探れば、これら以外の方法はすべて禁止となるだろう。
『神聖な出産行為に、人工的に関わるのはよろしくない』という論理なのだから。
このあたり、「これは技術が確立されているから」とか「これは安全だから」とかいう人もいるだろうが、いかなる技術も初期段階では「安全性が確立」されている事はありえない。
何度も実施での試行錯誤を繰り返して「より安全な方法」が確立されていくだけなのだ。
だから、「現時点で確立されていないから」「新しい技術だから」社会認知が無い以上、採用すべきではない。
という論理は取りえないと思う。
と、まあ、「倫理」のしかも感情論だけで論ずる事の愚かさを書いてみたのだが、この問題、実は「倫理上・心理上」の問題が深く根底に存在している。
- その2へ続く
"http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/12/14/4008726"
------
※ 参考自筆記事 代理出産はSF世界で言われつつけた問題
― 2008年03月01日 00時37分31秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/03/01/2675507
「産む機械」 発言は認めないが、行為は認める不思議な人々
― 2007年01月31日 03時25分34秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2007/01/31/1153195
「人を愛さない」契約は可能なのか? 新たな「親子」の可能性と問題点 2/2 ― 2008年12月14日 17時40分07秒
夫婦以外の精子・卵子使った体外受精容認へ…生殖医学会方針
12月13日14時47分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081213-00000028-yom-sci
表題に書いた事が、私が今疑問に思っているすべて。
というか「そんな事、不可能」というのが自分の中での結論なのだけどね。
「愛さないように努力する」事はできても、「絶対に愛さない」と確約する事なんて、誰にもできないと思う。
人の内心(感情)を契約やその他の方法で強制する事なんて不可能だし、それは「人の意思」に対する冒涜だと思ってる。
さて、なんでこんな事を書いているかといえば、これが今回の「体外受精容認論」などで置き去りにされている「親子としての意識・愛情」の問題だから。
まず、「親子」としての愛情はどこから生まれてくるのだろうか?
1.「妊娠し十月十日腹の中で育てたから生まれる」 (胎児育成中)
2.「愛した人の子だから、自分も親子として愛せる」(夫婦間の愛情より派生)
3.「『親子』として共同生活を送っているうち」 (共同体としての実態)
4.「血縁関係があるから、親子として愛せる」 (遺伝子関係)
大まかに言えば、上の4パターンおよびこれらの複合パターンが主だろう。
「通常」は4つすべてを持っていると言ってもいいだろう。
※ ただし3は『生まれてから』の時間経過後に醸成されるもののため、今回の「出産」とは関係無い部分ではある。
……ちなみに、こう書くと「4つとも持っていない場合は、通常でない」というのか、とお叱りを受けそうだが「通常(自然)の形態ではない」のは事実だろう。人工的に擬制された「親子関係」である事は否定できないと思う、申し訳ないが。
さて本論に戻るが
1.について言えば、旧来からの「実子論」(実際に言えば1と4の複合)だし
2.について言えば、旧来で言えば『連れ子に対する親子関係論』(2と3の複合)
3.について言えば、旧来からの「養親子・里親子関係」
4.のみを特化した考えが、近年出始めた「代理出産論」の根底意識
といえる。(実際には、もうちょっと複合するだろうが)
で、今回の体外受精論は「カテゴリー上どこに属するか」といえば、おそらく1と2・(後将来的に3)の複合的意識になるだろう。本来「自分の子で無いが愛せる」という理論だけで行けば2と3だけなのだが、ここに「自分が出産したい」という意識が加味されているからだ。
「自分が出産したい」という事は、単に「出産に興味がある」というだけでなく「胎児育成・出産によって、親子としての愛情や意識を持つ事ができる」という感情・思考がそこにはあると思う。
……というか、無かったら『自分の子でない「出産」』を望む理由が見つからないのだが。
-----
で問題なのは、実はこの考え方が「代理出産」とほぼ正反対に位置する関係になっている事。
代理出産の場合「愛する人でもなく」「自分の遺伝子でもない」ただ「自分が妊娠し出産する」という事実だけがそこにはある。
今、「代理出産に親子関係は無い」という意見が多く見られるが、ここで「1」の意識を持つのが「正当だ」というのであれば、「代理母が受胎した子供に愛情を持つ事」も「正当」でなければおかしい。
したがって「代理出産でも親子の愛情は成立する」という前提になる。
「契約によって『親子関係を行使しない』」と定める事は可能かもしれないが、「親子としての愛を持つな」という事は定められない。これが表題に繋がる話になるのだ。
この時、「契約違反を覚悟の上」で「親子としての関係を求めた」としても、その代理母を「間違っている」と否定できるだろうか?
法律上・契約上間違っているとしても「人として」は間違っていない。
私はそのように考える。
なので、今回の話を肯定するのであれば「代理母が愛情を持つ危険性」についても認識した上で代理母論をしっかり述べる必要があるだろう。
-----
また愛情問題について言えば、体外受精で子供を作った側にも将来的な問題が発生する怖れがある。
1・2・3によって形成されている親子関係(4は無い)のが、今回のパターンだが、仮にこれが「2」が無くなった時(夫を愛さなくなった時)、その子を「1・3」のみで愛せるのか?という危険性がある事だ。
実際には「可能」だと思う。元々「3のみ」でも愛する事は可能なのだから(血縁関係の無い養子関係)
ただし『元々「3のみ」』で可能だったものを「1・2」も含む事を最初の段階(体外受精の段階)で求める意識レベルの人間が、『「3のみ」でも愛せる人』だと信じる事は難しいだろう。
実際、「3のみ」でも愛する人がいるが、同時に「1~4」のうち一つでも欠けたら愛せなくなる人もいるのだから。
このような状況下では、産まれて来る子の将来的保護まで見据えた発想がなければ、このプランを進めて行く事は非常に危険なものだと思う。
※ 実際、連れ子を自分の子のように愛していたが、旦那と反りが合わなくなったとたん
その子も愛せなくなった話も、仕事柄よく知っている。
(旦那が死んだ瞬間、子とは繋がらなくなった人とか)
----
ちなみに法的な親子関係問題については、前に書いた「代理母問題」を参照していただきたい。
現在の生殖医療の問題点は「法的な親子関係」の問題もさる事ながら、「親子の愛情」とは何か? 更に言えば「他人を愛するとは何か」という人が持つ根底の命題そのものを含んでいる事にある。
この辺りの意識を持たないまま事実のみが先行していく。
「後で困った時に考えればいい」そのような安易な考えですべてが先行していく。
そこにこの問題の危険性が潜んでいると思う。
-------
追記:後、「愛さない」契約も無理だけど、「愛さなければいけない」契約も無理だと思う。
「1~4まである」と思って育った子供が、その4つを前提として愛情を構築していた場合、そのうち一つでも「欠けている」事を知った時、「それでも親を親として愛し続けられるか?」という事もきちんと考えておく必要がある。
これを「愛し続けるように『できる』」などというのは、こちら側の傲慢だろう。
「愛し続けてもらえるように『努力』する」事はできるが、実際にその子がどう思うか?はその「子」自身の問題であって、強制する事はできない。
ある日突然、「事実を知った子供」に、愛されなくなる・憎まれる事も覚悟して体外受精を行う事が、作る側には最低限必要だと思う。
「そんな事は無い」「私なら大丈夫」などと危険性から目をそらして希望(というより独りよがりの願望)にすがって体外受精を行うのは論外だと思う。
----
※ 参考自筆記事 代理出産はSF世界で言われつつけた問題
― 2008年03月01日 00時37分31秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/03/01/2675507
「産む機械」 発言は認めないが、行為は認める不思議な人々
― 2007年01月31日 03時25分34秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2007/01/31/1153195
-------
ちなみに、私は
「他人を愛する」のは一瞬で可能な事であり、どんな状況であっても「他人を愛さない事」を強制する事はできないと考えている。
「その愛し方はよくない」という事はできたとしても、またある程度社会通念や法で「抑制」する事はできても、「何かを愛する事」や「何かを考える事」自体を否定する事はできないと思っている。
自分以外の「誰かが想う事・考える事」自体を否定する事こそ、どこか傲慢なのではないかと思う。
基本的に「思想・心情・感情」は自由なものであって、誰にも否定できない根源。
これが自分の基本。
……とはいえ、それが「外部に出た」時『他者を侵害するもの』である時は「外部に出る事」は否定するけどね。
なので、基本的にマイノリティに関しても鷹揚。
別に同性間で恋愛しようが近親間で恋愛しようが、世代を超えて恋愛しようが自由。
ぶっちゃけ、ホモだろうがレズだろうが近親相姦だろうが、ショタコン・ロリコン・オジコン・オバコンなんでもござれ。異種族間であっても「アリ」だと考えてます。
ていうか2次コンだろうが、外国人好きだろうが「他を愛する」という意味では「どれも根源は同じ(単なる程度問題)」でしかないからねぇ。
……だからと言って「自分がそういう傾向」だという訳ではないので、誘ってもらっても興味がわかない限り無理なのだが。(興味がわいたらOKかもしれんが)
……元々、私自身は、「私至上主義」の『俺様』男だからねぇ。
-------
という事で、マイノリティだろうが何だろうが平等に扱う(意識においても)自信はあります。
何かあったら、いつでも当事務所にご相談ください。
g-lawyer@aa.alles.or.jp
---------
--- その1へ戻る
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/12/14/4008724
12月13日14時47分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081213-00000028-yom-sci
表題に書いた事が、私が今疑問に思っているすべて。
というか「そんな事、不可能」というのが自分の中での結論なのだけどね。
「愛さないように努力する」事はできても、「絶対に愛さない」と確約する事なんて、誰にもできないと思う。
人の内心(感情)を契約やその他の方法で強制する事なんて不可能だし、それは「人の意思」に対する冒涜だと思ってる。
さて、なんでこんな事を書いているかといえば、これが今回の「体外受精容認論」などで置き去りにされている「親子としての意識・愛情」の問題だから。
まず、「親子」としての愛情はどこから生まれてくるのだろうか?
1.「妊娠し十月十日腹の中で育てたから生まれる」 (胎児育成中)
2.「愛した人の子だから、自分も親子として愛せる」(夫婦間の愛情より派生)
3.「『親子』として共同生活を送っているうち」 (共同体としての実態)
4.「血縁関係があるから、親子として愛せる」 (遺伝子関係)
大まかに言えば、上の4パターンおよびこれらの複合パターンが主だろう。
「通常」は4つすべてを持っていると言ってもいいだろう。
※ ただし3は『生まれてから』の時間経過後に醸成されるもののため、今回の「出産」とは関係無い部分ではある。
……ちなみに、こう書くと「4つとも持っていない場合は、通常でない」というのか、とお叱りを受けそうだが「通常(自然)の形態ではない」のは事実だろう。人工的に擬制された「親子関係」である事は否定できないと思う、申し訳ないが。
さて本論に戻るが
1.について言えば、旧来からの「実子論」(実際に言えば1と4の複合)だし
2.について言えば、旧来で言えば『連れ子に対する親子関係論』(2と3の複合)
3.について言えば、旧来からの「養親子・里親子関係」
4.のみを特化した考えが、近年出始めた「代理出産論」の根底意識
といえる。(実際には、もうちょっと複合するだろうが)
で、今回の体外受精論は「カテゴリー上どこに属するか」といえば、おそらく1と2・(後将来的に3)の複合的意識になるだろう。本来「自分の子で無いが愛せる」という理論だけで行けば2と3だけなのだが、ここに「自分が出産したい」という意識が加味されているからだ。
「自分が出産したい」という事は、単に「出産に興味がある」というだけでなく「胎児育成・出産によって、親子としての愛情や意識を持つ事ができる」という感情・思考がそこにはあると思う。
……というか、無かったら『自分の子でない「出産」』を望む理由が見つからないのだが。
-----
で問題なのは、実はこの考え方が「代理出産」とほぼ正反対に位置する関係になっている事。
代理出産の場合「愛する人でもなく」「自分の遺伝子でもない」ただ「自分が妊娠し出産する」という事実だけがそこにはある。
今、「代理出産に親子関係は無い」という意見が多く見られるが、ここで「1」の意識を持つのが「正当だ」というのであれば、「代理母が受胎した子供に愛情を持つ事」も「正当」でなければおかしい。
したがって「代理出産でも親子の愛情は成立する」という前提になる。
「契約によって『親子関係を行使しない』」と定める事は可能かもしれないが、「親子としての愛を持つな」という事は定められない。これが表題に繋がる話になるのだ。
この時、「契約違反を覚悟の上」で「親子としての関係を求めた」としても、その代理母を「間違っている」と否定できるだろうか?
法律上・契約上間違っているとしても「人として」は間違っていない。
私はそのように考える。
なので、今回の話を肯定するのであれば「代理母が愛情を持つ危険性」についても認識した上で代理母論をしっかり述べる必要があるだろう。
-----
また愛情問題について言えば、体外受精で子供を作った側にも将来的な問題が発生する怖れがある。
1・2・3によって形成されている親子関係(4は無い)のが、今回のパターンだが、仮にこれが「2」が無くなった時(夫を愛さなくなった時)、その子を「1・3」のみで愛せるのか?という危険性がある事だ。
実際には「可能」だと思う。元々「3のみ」でも愛する事は可能なのだから(血縁関係の無い養子関係)
ただし『元々「3のみ」』で可能だったものを「1・2」も含む事を最初の段階(体外受精の段階)で求める意識レベルの人間が、『「3のみ」でも愛せる人』だと信じる事は難しいだろう。
実際、「3のみ」でも愛する人がいるが、同時に「1~4」のうち一つでも欠けたら愛せなくなる人もいるのだから。
このような状況下では、産まれて来る子の将来的保護まで見据えた発想がなければ、このプランを進めて行く事は非常に危険なものだと思う。
※ 実際、連れ子を自分の子のように愛していたが、旦那と反りが合わなくなったとたん
その子も愛せなくなった話も、仕事柄よく知っている。
(旦那が死んだ瞬間、子とは繋がらなくなった人とか)
----
ちなみに法的な親子関係問題については、前に書いた「代理母問題」を参照していただきたい。
現在の生殖医療の問題点は「法的な親子関係」の問題もさる事ながら、「親子の愛情」とは何か? 更に言えば「他人を愛するとは何か」という人が持つ根底の命題そのものを含んでいる事にある。
この辺りの意識を持たないまま事実のみが先行していく。
「後で困った時に考えればいい」そのような安易な考えですべてが先行していく。
そこにこの問題の危険性が潜んでいると思う。
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追記:後、「愛さない」契約も無理だけど、「愛さなければいけない」契約も無理だと思う。
「1~4まである」と思って育った子供が、その4つを前提として愛情を構築していた場合、そのうち一つでも「欠けている」事を知った時、「それでも親を親として愛し続けられるか?」という事もきちんと考えておく必要がある。
これを「愛し続けるように『できる』」などというのは、こちら側の傲慢だろう。
「愛し続けてもらえるように『努力』する」事はできるが、実際にその子がどう思うか?はその「子」自身の問題であって、強制する事はできない。
ある日突然、「事実を知った子供」に、愛されなくなる・憎まれる事も覚悟して体外受精を行う事が、作る側には最低限必要だと思う。
「そんな事は無い」「私なら大丈夫」などと危険性から目をそらして希望(というより独りよがりの願望)にすがって体外受精を行うのは論外だと思う。
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※ 参考自筆記事 代理出産はSF世界で言われつつけた問題
― 2008年03月01日 00時37分31秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/03/01/2675507
「産む機械」 発言は認めないが、行為は認める不思議な人々
― 2007年01月31日 03時25分34秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2007/01/31/1153195
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ちなみに、私は
「他人を愛する」のは一瞬で可能な事であり、どんな状況であっても「他人を愛さない事」を強制する事はできないと考えている。
「その愛し方はよくない」という事はできたとしても、またある程度社会通念や法で「抑制」する事はできても、「何かを愛する事」や「何かを考える事」自体を否定する事はできないと思っている。
自分以外の「誰かが想う事・考える事」自体を否定する事こそ、どこか傲慢なのではないかと思う。
基本的に「思想・心情・感情」は自由なものであって、誰にも否定できない根源。
これが自分の基本。
……とはいえ、それが「外部に出た」時『他者を侵害するもの』である時は「外部に出る事」は否定するけどね。
なので、基本的にマイノリティに関しても鷹揚。
別に同性間で恋愛しようが近親間で恋愛しようが、世代を超えて恋愛しようが自由。
ぶっちゃけ、ホモだろうがレズだろうが近親相姦だろうが、ショタコン・ロリコン・オジコン・オバコンなんでもござれ。異種族間であっても「アリ」だと考えてます。
ていうか2次コンだろうが、外国人好きだろうが「他を愛する」という意味では「どれも根源は同じ(単なる程度問題)」でしかないからねぇ。
……だからと言って「自分がそういう傾向」だという訳ではないので、誘ってもらっても興味がわかない限り無理なのだが。(興味がわいたらOKかもしれんが)
……元々、私自身は、「私至上主義」の『俺様』男だからねぇ。
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という事で、マイノリティだろうが何だろうが平等に扱う(意識においても)自信はあります。
何かあったら、いつでも当事務所にご相談ください。
g-lawyer@aa.alles.or.jp
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http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2008/12/14/4008724
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