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法の下の平等を否定する日本(特に法曹会)2011年10月01日 22時11分24秒

【山口組組長 一問一答】 全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」
2011.10.1 12:00 (1/5ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/crm11100112010000-n1.htm

 述べている「人」の是非はともかく、述べている「内容」自体は賛同できる。

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東京都暴排条例、1日施行=利益供与禁止、違反者は実名公表も―全国で対策出そろう
時事通信 10月1日(土)0時20分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111001-00000002-jij-soci

10月1日、今日、暴力団排除条例が東京でも施行された。
色々なメディアでも取り上げられたので詳細は省くが、はっきりと異論を唱えたい。

 「暴力団や他人に危害を加えるような人間は、社会生活を制限して構わない」というのは、「法の下の平等」の意味を知らない一般人が声高に言うのは、無知ゆえに仕方がないと思う。
 だが、少なくとも弁護士会や我々「法の下の平等」を取り扱う人間が、それを推奨するのは明らかに間違っているのではないだろうか。
 確かに、暴力団による「不当な行為」または「不当な行為に結びつく事が確実な行為(準備行為)」ならばそれは制限しても構わないとも思う。なぜなら、それは市民に直接被害を及ぼす行為であるのだから。

 しかし、単に「暴力団に所属しているから」という理由だけで不利益をこうむらせて構わないというならば、それは「法の下の平等」の放棄に他ならない。

 それは、少なくとも「法に携わる人間」が言う台詞では無い。
 弁護士で「暴力団員なのだから差別しても構わない」というならば、その人は自らバッジを外すべきではないだろうか。

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「暴力団だから」というフィルターによって歪められているが、本来、所属団体・主義主張・思想により「実際の行動が行われない段階」で差別する事が許されるなどという事は決して許されることではない。
 ならばフィルターを外して考えれば、これは「暴力団」構成員であっても本来差別される事は許されないはずだ。

 仮に「暴力団」であるから「集団行動しているだけ」で「どんな行動であっても」差別して構わないというのならば、それはいずれ、宗教団体でも右翼でも左翼でも『同様に』集団となっただけで差別される時がきても文句をいう事はできないだろう。
 彼等団体も「将来的に不当な行為で市民に危害を加える恐れがある」だから「今から差別して排除して構わない」という論理を構築されたら、反論不能になるからだ。

 これはあまりに危険な排除思想ではないだろうか。
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 何度も繰り返すが

 私は「暴力的不法行為」を肯定しているわけではない。
 むしろ、それ自体は明らかな不法行為であり実際に被害者を発生させている以上、厳しく取り締まるべきだと思う。
 また「明らかに」準備行為が認められるならば規制して予防すべきだろう。

 だが、一方で「暴力的不法行為を行う人がいる」団体に『所属』しているからといって、また「行う人がいる」団体だからといって差別してよいというのは話が全く違うと考える。
 それは人の「集団・結社の自由」「行動の自由」「思想の自由」そのものの制限でしかないからだ。

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 今回の話はあくまで暴力団の話だ拡大するなという人もいるだろうが、私は、今回の話は「非実在青少年」ポルノ問題と同様の「危険性」があると考えている。

 「非実在青少年」ポルノの問題については、次のような論理で規制展開がされている。

 「非実在青少年」の性描写が存在すると「実在の青少年に性被害がある」『はず』だ。だから取り締まるべきだ。
 「実在の青少年に被害が及ぶ」という事実の有無は関係なく、「非実在は実在への被害を『必ず』誘発すると『思われる』」だから取り締まるべきだ。

 もはや事実も何も関係無い。取り締まる側、規制を求める側の一方的な「だろう」という思想のみで排除できる。これが「非実在青少年」描写への規制なのだ。

 そしてこれは暴力団排除をうたった今回の法論理とまったく同じ思考過程でしかない。

 彼らの論理は「暴力団という集団」が存在する限り「暴力的不法行為」が将来必ず発生する。だから「今から制限して予防しても構わない」という論理でしかないのだ。
 これは「実際の被害」の有無は問わず、一方的な予想のみで他者を制限して構わない、という論理なのだ。

 これを非常に危険な思想だと考えない人は可笑しいのではないだろうか。

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 繰り返すがこの話は「暴力団だから」構わないというレベルの話ではない。
「実在の被害」なしに「いずれ犯すだろう集団だから」というあいまいな理由だけで排除する事が正常な思想かどうかという問題なのだ。

 はっきりいって、社会や国家が決めたルールについて「いずれ法を犯すかもしれない」というあいまいな理由だけで「規制しても構わない」のであれば、人はいかなる行動も安心して行う事はできなくなるだろう。
 なぜなら、正当な理由がなくても「それがいずれ犯罪行為に結びつく」と判断されれば『誰でも』「規制対象」となるからだ。

 ところが、今回は「暴力団だから」というフィルターによって、この規制が認められている、受け入れてしまおうとしている。
 今は「暴力団だから」というフィルターがかかっているが、これが一般の市民に向けられない保証など、どこにも無いのにだ。

 今回の「内容」で考えず「ラベル」で考える風潮は、中身を見ずに反戦思想の人間を「非国民」といって排除した時とまったく同じでしかない。

 本来、戦前のようにこの規制が「いずれ国民に向けられる」事も可能性として想定するのが、本来、歴史に学ぶ人間の発想ではないだろうか。
 その発想も無く「相手は暴力団だから」ということだけで思考が止まってしまっている市民、さらには法の下の平等を担うべき法曹会自体の思考の浅さに、私は今の日本人の精神的危うさを深く感じている。


 現代の「魔女狩り」が始まった。

 歴史を振り返った時、このように言われない事を強く望みたい。

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 「あなたは暴力団員です、だからあなたは差別されて当然です」
 弁護士がこれを「正当な思想」といい出したら、刑事弁護制度も実質一発で崩壊するのですがね。

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参考
OBSCURE
逼迫したオトメの祈りと懺悔のブログ 暴力団排除条例
2011-09-29 18:45:10
http://katejina.jugem.jp/?eid=55

追加
週プレニュース
憲法違反の危険性がある「暴力団排除条例」が全都道府県議会を通過した理由[2011年09月29日]
http://wpb.shueisha.co.jp/2011/09/29/7126/

くそぅ、三流紙だと思ってスルーしていたが意外にこんな良記事があるとは。
これだから「右にならえ」のマスコミと違って、週刊誌は時に侮れないなぁ。 orz

中立性無き第三者委員会、やっぱり「できレース」2011年10月20日 23時06分06秒

佐賀知事、九電社長から「進退は尚早」と助言
読売新聞 10月19日(水)12時44分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111019-00000595-yom-soci
読売新聞 10月19日(水)12時44分配信

佐賀知事、8月に辞任覚悟していた 九電やらせ問題
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/532100/
配信元:産経新聞 2011/10/18 09:44更新

 第三者委員会が、最初から「政府に都合の良い佐賀県知事叩き」をするために「結論ありき」で動いていた事が明らかになった。

 いきなり何を言い出すかと思う人もいるだろう。
 だが次の点について考えてもらいたい。
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 今回の新聞やテレビ等マスメディアは、「第三者委員会初会合の日」に「九州電力から助言を得ていた」事によって『九州電力と佐賀県知事の不透明な関係』を問題視する報道を行っている。
 だが、少し考えて欲しい。
 第三者委員会の初回会合『当日』に『佐賀県知事』と『九州電力』がやり取りしている事を問題だと言っているが、ではその「前日」の行動はどうなのだろうか。
 判りやすくいえば、第三者委員会の初回会合『前日』に『佐賀県知事に対し個人的に助言を』したの『誰』なのだろうか。
 
 次の記事をよく読んでいただきたい。

> 知事によると、真部社長からの電話は、初会合が始まる直前の同27日昼に2、3回あった。
>真部社長は、第三者委の委員長を務めた郷原信郎弁護士が前日の26日に知事に辞任を促したことを受け、知事に連絡を取り、知事は「私も事実関係を調査する」と答えたという。
(読売新聞) 

> 郷原氏はまた、第三者委がやらせの発端になったと認定した九電幹部に対する古川知事の発言について、九電側が残したメモを電話口で読み上げると、知事は「そのような発言をしたのは事実。表に出れば私が玄海原発の再稼働に突っ走ってきたと思われる」と述べたと答弁した。第三者委の発足前日の7月26日、福岡市で個人的に古川知事と会談し「早期に辞任した方がいい」と促したが、知事は拒否したという。
(産経新聞 izaニュース)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/532100/


 「当日」に「九州電力と」やり取りした事が問題だというのであれば、「前日」に「郷原氏」から「辞任が促された」事には問題が無いのだろうか。

「不利益な結論を出すので、その前に辞めておいた方がいい」
 第三者委員会の開かれる前日に第三者委員会委員長が、相手方にそのような発言を行う。
 これは「委員会が始まる前」に「委員長はすでに結論を持っていた」という証拠に他ならない。

 しかもさらに問題なのは、「郷原氏」が「前日に辞任を促す」という『行為』そのものにある。

 中立性を保たなければならない「委員長」が、「個人的」に「委員会前日」「行動を促す」(辞任を促す)というのは暴挙でしかない。
 これで、どこに「第三者委員会は中立性を保っている」と言えるのだろうか。
 第三者委員会が「偏向した委員会であった」事を、委員長自らが証明してしまっているのだ。

 このような状況で、このまま第三者委員会の報告が「中立的見地からの報告」と判断することは社会的に許されない事でしかない。
 郷原氏はすみやかに第三者委員会委員長の座を返上し、第三者委員会はもう一度中立性を保った会議を行うべきだと私は考える。

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 それにしても、郷原氏7月30日の段階で様子見をして擁護したのはやっぱり失敗だったと、自分でも思う。
 確かに聞くべき点もあるとは思うが、この人の著作やテレビでの発言の底の浅さが本当は大嫌い。
 とはいえ、一応、周囲やネットで叩かれる事も少し考慮してしまったため、お茶を濁して擁護したのだが、今になってとても後悔。
 ネットでの叩きなど関係なく本音を本気で書かないと、自己嫌悪が激しくなって駄目になるな、自分は。

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知事が泥をかぶればいいのか?(九州電力問題-1) ― 2011年07月31日 10時34分21秒
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2011/07/31/5998106
>調査委員会の郷原委員長も「(メモの内容は)ただちに知事の発言とは言えない」と話している。
>この発言から見ると郷原委員長も「知事のせいで」と短絡的に考える事はおそらく無いのだろう。
>
> この人の著書を読むと、若干偏っているところはあるのだが、非主流派とはいえ「元検事」。
> 流れに任せて知事叩きで終わりにすればいい、という考え方はしないと、私は思っている。

 「ただちに知事の発言とは言えない」と言いつつ、前日には「不利益を蒙るだろうから、今のうちに辞任していたらどうか」と知事にはアドバイスしていたという事だ。
 本当に世渡りのうまい元検事だと思う。

24時間「運用」とは何か?2011年10月21日 19時33分36秒

羽田国際化1年 「24時間」看板倒れ 成田と一体運用 ハブ化に課題
フジサンケイ ビジネスアイ 10月21日(金)8時15分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111020-00000012-fsi-bus_all

羽田国際化1年 アジアハブ空港、道遠く 成田との一体化課題
産経新聞 10月21日(金)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111021-00000111-san-bus_all

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 「24時間運用する」ということは、単に「24時間離着陸できる」ということではない。

 まあ、計画が出たときや去年の開業前に自分のブログでも想定される問題点を書いたのだが、それも含めて羽田は未だに「とりあえず開業してみた」レベルの運用のままのようだ。
お話にならない。

思いつきを垂れ流すのはどうだろう… 「羽田ハブ計画」
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2009/10/13/4631316
羽田の「ハブ化」は意味がない
http://kusuriyasan.asablo.jp/blog/2010/08/04/5268418


 今の羽田空港は「どう運用するか?」という、グランドデザインなしでの思いつき24時間運用が祟ってるとしかいいようが無い状況だ。

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 で、この手の話をすると「じゃあ成田は便利なのか」という論にすぐ走る人がいるが、はっきりいって、それは論理のすり替えでしかない。

 なぜなら、「羽田の深夜アクセスの不便さ」や「空港内滞在性の悪さ」は成田とは関係ない『羽田独自の問題』でしか無いからだ。

 本来、「成田廃止論・棲み分け論」は、「羽田の昼間利用率が増加する」というだけの話であって、「羽田の深夜運用の向上」とはまったく関係のない話だ。

 だから、ここで「成田論」を持ち出すのは『筋違い』でしかない。

 あくまで問題解決のポイントは「羽田空港」の深夜運用自身にあるのだ。

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 単純に言えば、「羽田の24時間運用」をうまくいくためには、「深夜の羽田空港」の価値を向上させる以外、解決方法はない。

 そのためには、羽田空港に「深夜でも」アクセスしやすくするか、羽田には(または羽田からは)「通常アクセス」で対応し、「羽田空港に深夜滞在する」人の「深夜空港滞在性能」を向上させるかしかないだろう。

 しかしながら、深夜のアクセス面強化については「空港外の交通手段」の問題となるため、簡単に強化することは難しい。

 なら、今、打てる手は自然と一つに限られてくる。

 それは「昼間・深夜を問わず、24時間『いつでも』空港内で不便を感じない」ようなグランド設備を拡充させることだ。

 ところが、誰もこの点を真面目に考える人がいない。

 これでは羽田空港の「24時間運用」の利点は殆どいかされないといっていいだろう。
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 ちなみに、個人的意見でいえば、最も簡易で効果的なすぐできる手段として、空港内(制限エリア内)にネットカフェ件漫画喫茶を作る事を推奨したい。

 はっきり言って2~3時間、簡単に時間を潰せる施設だし、外国人からしても、最初に日本文化としての「知的産業」に触れる事ができる施設になる。

 ついでに日本文化やジャパニメーションを紹介するグッズコーナーでも作れば、収益も非常に高く見込めるのではないだろうか。

 間違いなく、黒字運営が見込める設備だと思うのだが、どうだろうか?
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 最近のテレビの特番もおかしなもので、「昼間の羽田」は異様に宣伝しているが、「深夜の羽田」を報道する番組はほとんど無い。

 これで「深夜の羽田空港も便利です」と言い切るのは非常に問題があるのではないだろうか。

 少なくとも「深夜の羽田空港」を語るのであれば、「深夜の羽田空港」を映すべきだと思う。
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 実際、今日の夕方のニュースでも羽田を取り上げる時に、品川プリンスのディナーや附属水族館?のアシカショーを映していたが、これは「深夜に離着陸する」客に関係のないサービスだ。

 羽田空港を「国際・国内線運用」することと「24時間」運用することはどこまでも異なる視点で考える必要がある事を理解して考えるべきだろう。

「適材適所」こそが基本2011年10月25日 03時35分05秒

あなたの周りの残念なミドル
事実しか見えない「こうなってますおじさん」
小林 暢子 2011年10月24日(月)
日経ビジネスオンライン

本来「事実を見る事」しかできない人というのは、確かに世の中に存在する。
 そして運悪くこの手のタイプが中間管理職になる場合もある。

だがこの時、「こうなってます」おじさんを責めるのは問題があるだろう。

そもそも、このタイプの人間の能力はどこにあるのだろうか。この人はまったく能力が無いわけではない。「こうなってます」と正確に伝える事はできるのだがら『状況から事実を正確に把握し伝達』する能力すなわち情報収集・分析能力は非常に高いともいえる。
 では、この人に不足しているのは何か。
 それは、情報から自分が生み出さなくてはいけない「洞察力」「発想力」の部分だ。
 この事は記事自体でも書かれている。


この人は確かに中間管理職としては失格だろう。自分でもそう考える。なぜか。

それは、そもそも「管理職」に求められる能力の一つが「洞察力・発想力」すなわち自分で考えを生み出す「創造力」だからだ。

その「創造力」の無い人材が「創造力」を必須とする「管理職」にいる。
 これは例えていえば、長距離打力が必要な4番バッターに守備力が高いだけの選手を置くようなものだ。

このようなミスマッチ状態ではうまくいくはずがない。
 


ではこの時、組織としてはどうやって対応したらよいだろうか。

個人としては「頑張って創造力をつけましょう」という話で済むだろう。
 だが、組織として見れば話は違う。
 人は人に「創造力」を「教える」事はできない。
 それは記事でも書かれている。

 

それがね、僕にも分からないのよ。前職の時もいろいろ議論したんだけどねえ。分析は教育できるんですよ。アナリストなら株式相場の読み方を体系的に学ぶとか。でも洞察力には学習材料が無い。洞察力の無い人の課題は分かるんだけど、それをどう上げるかという方法論はなかなか、ねえ。

 

創造力を「鍛える」事はできる。だが「教わる」事はできない。
 

コレコレこうすれば創造力が付くという定型的な方法というのは存在しない。何度も自ら発想し洞察し続けた結果「自分なりの創造力」が自己内部に構築されていくのだ。

実際、ドラッカーも著書において次のように述べている。

 

本書は教科書ではない、その理由の一つは、成果をあげることは学ぶことはできるが教わることはできないからである。つまるところ成果をあげることは教科ではなく修練である。

 ドラッカー名著集 1「経営者の条件」 P.218 ダイヤモンド社

 

「創造力が付く」ように教育する事は不可能だ。
 では「創造力が無い」人間はどのように扱ったらよいのだろうか。

 

答えは簡単。

 

守備力が高く打力の無い選手であれば、4番バッターから外せばいい。
「創造力が無い」人間ならば、「創造力が必要な部門」から外せばいい。

 

それだけでいい。

 

ただこの時注意しなければいけないことがある。それは、これを降格人事としてはいけないということだ。あくまで不適切な「中間管理職」から外して最も活かせる部門に置くための人事、即ち「適材適所を貫く」ための人事異動として徹底することだ。

そもそも問題なのは、この人の「個人的資質」ではなく「適材適所という基本概念から外れた人事」を行った「人事管理」の方にある。

人事がうまくいかなかったときには、動かされた者を無能と決めつけてはならない。人事を行ったものが間違ったにすぎない。マネジメントに優れた組織では、人事の失敗は異動させられた者の責任ではないことが理解されている。
 

重要な仕事をこなせない者をそのままにしておいてはならない。動かしてやることが組織と本人に対する責任である。仕事ができないことは本人のせいではない。だが動かしてやらなければならない。

 ドラッカー著「経営者の条件」 P.8

 

人事面でのミスマッチという失敗が、ミスマッチされた本人の責任になる。そのような組織では個人が安心して働くことなど不可能だ。なぜなら他人のミスで自分が裁かれてしまうという事なのだから。

ところが、未だに多くの企業がミスマッチの責任を本人に負わせ、負わされた本人にミスマッチを解消する努力を要求する。

これでうまくいくはずがない。

あくまで「適材適所」に徹する、これこそが基本原則にして最も有効な解決方法でしかないのだから。

 

ところが、この記事を書いている筆者自身は「だから能力を付けましょう」論に陥ってしまっている。

 

業界を問わずに存在する「残念なミドル」とは。いくつかのタイプを取り上げ、その脱却法を紹介する。

 

それが、この記事自身を「残念な記事」にしている原因なのだろう。

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